2007年9月24日

『初音ミク』と「精神・物質二元論」について。

…。『初音ミク』。知ってますか?AV女優じゃないですよ。DTMが趣味だったり、日ごろニコニコ動画見てる人には今さらだろうけど、知らない人はまったく知らないと思うので簡単に説明すると、『初音ミク』とは最近発売になった少女の合成音声で歌わせるDTM用ソフト音源の名前です。

で、これがなんかとんでもないことになってる。熱狂の中心はニコニコ動画なんだけど、発売して間もないにもかかわらず大量の作品がアップされてて、その中でも僕が一番感銘を受けたのはPerfumeの『エレクトロ・ワールド』を、アイドルマスター(※ナムコが作った萌え系3DCGのアイドルシミュレーションゲーム)のキャラクタが踊りながら『初音ミク』の声で歌う、というやつ。
(ニコニコ動画↓)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1041483
(ニコニコのアカウントがない人用youtubeに転載版↓)
http://www.youtube.com/watch?v=XyvdWDaVuK8
…。なんじゃこれは。打込の演奏、CGアイドル、合成音声。人っ子一人いやがらねー。で、驚くべきことにそれがまったく何の問題もないのだ。

でもそれはポップアイドルやテクノ(エレクトロ)ポップの本質を考えれば、特に驚くようなことではないのかもしれない。
テクノという音楽は「物質文明への風刺」と思われがちだけど、実はそうじゃない。そもそも世界を「物質文明」だ、なんて表現してしまう感覚そのもの、つまりそういった世界の捉え方の元になってる「精神・物質二元論」への反発だろう。
んー。世界を「モノ」と「精神(こころ)」に分けるってのは、今の世の中、というかデカルト以来「常識」になってしまってるので、いまさらだれも疑わないけど、ほんとはそんなもんただの「勘違い」なのです。
「モノ」を「モノ」として存在させているのは「この私」であり、逆に「この私」の存在を支えるのは「モノ」の存在である、…んー「支える」じゃないな…。えと、「私」と「モノ」は「私=モノ」といえるほど完全にピッタリと密着していて、分別することなんてできない(永井均先生の『ウィトゲンシュタイン入門』の中に、「(ウィトゲンシュタイン的)独我論はつきつめれば実在論になる」ってのがあったけど、まさにそういうことです)。

そんな本来「私」から不可分なはずの「モノ」を「精神・物質二元論」なんてものが、むりやり真っ二つにぶった斬った結果どーなったのか?
それは二極化の方向をたどるんだけど、まずひとつは「人間性・精神性・心」こそが素晴らしいと持ち上げて、反対に「モノ」は価値を剥奪され貶められる方向。
例としてはいくらでもあるだろうけど、ちょっと前のなんたら大臣の「女性は生む機械」発言の騒動を思い出してほしい。あれって、
「製品をたった一、二個しか製造できない工業機械がどこにあるんじゃ。ぜんぜん比喩になってねー。こんな例え話ひとつ満足に出来ないウスラトンカチが我が国の大臣とは実にけしからんっ!!」
と、みんなして怒ってるのかと思ったらそうではなくて、
「女性(人間)を機械(モノ)なんかに例えるとはけしからんっ!!」
っていう話だったんだけど、たかだか比喩表現一つであれだけヒステリックに騒ぎ立てたのをみれば、いかに多くの人が「モノとの違いこそが人間の証し」と信じているかってことだろう。

そして、もう一つの方向はさっきと反対に、「金(モノ)こそがこの世の全て」とする、物質(モノ)をおもいきり持ち上げて、精神や人間性の方を低く置く立場だ。
「この私」から引き剥がされた「モノ」は、外側の世界で「他者と共通の価値」が固定され、金で流通、交換される「モノ」になる。だから、それらの「モノ」を「私のモノ」にするには金で買うしかなくて、逆に金さえあれば世界が手に入る、といった考えだ。

というわけで、「人間だもの(みつを)」も「金だもの(ほりゑ)」も、正反対の主張に思えるけど実は出所は一緒、「精神・物質二元論」という同じ穴のムジナなのです。
(キリスト教もイスラム教も元は同一の神なのに争ってる、ってのといっしょ。対立してるように見えるものは必ず似たもの同士で、「囲碁VSキックボクシング」のような異種対戦は不可能なのだ)

…んーと、何の話だっけ?ああ、テクノについて。で、テクノやエレクトロポップっていうのは、ヨガのポーズで「人という字はね…」などと説教を垂れるスピリチュアル野郎にぶち切れた、とあるミュージシャンが
「あ゛ー、も゛ー精神だの人間性だの、超ウゼーっ。んなジメジメして狭っ苦しいとこに俺を閉じ込めんじゃねー。これでもくらえっ!」
と、怒りにまかせて作った「心・精神・人間性などを根こそぎ排除した音楽」なのだ。
いわばそれは、精神主義によって地に落とされた物質(モノ)の復権運動で、「私=モノ」という健全な認識を取り戻す試みのひとつだろう。
今ここに在るモノ(音)こそが全てで、それこそが神秘・奇跡なのであり、「人間性」などという形而上の中身なんてカラッポだ、っていう。

だから、テクノの声にかけるヴォコーダーのようなエフェクトは「人間性」という不純物の排除が目的で、人間の声に機械っぽさを「足した」のではない。
そう考えれば、さっきの『エレクトロ・ワールド』の初音ミクと元うたのPerfumeを比較した場合、Perfumeの「人間性」なんてなんのアドバンテージにもなってない、どころかただのマイナス要因にすぎず、そんなもの最初からない初音ミクのほうが有利な位置にいることがわかるだろう。
そりゃ当然聞き比べれば原曲のほうが完成度が高いけど、それは純粋に技術的な問題であり、しかも、時間と金をかけたプロ集団の手による作品と、一DTMファンが余暇でこしらえた趣味的作品が普通に「比較できる」レベルだということが、逆に本質的・致命的な隔たりが存在しないことを物語っている。

このように初音ミク(それとアイドルマスター)によってテクノポップアイドルという存在が人間である必要がない、という事実がさらけ出されてしまった。Perfume本人とそのファンには大変気の毒だけど、選んだジャンルが悪かった。エレクトロポップもアイドルも、もともと「人間性」など必要としなかったのだし、代わりのテクノロジーが発達すればいずれ不要になるような存在だったのだ。そして、そのテクノロジーはもう初期の実用段階に突入している。
しかし面白い時代になったもんだ。

2007年8月 8日

M・ナイト・シャマラン監督『サイン』は名作なのだっ。

signs.jpg
こないだ、見ようと思って見損ねてたシャマランの新作(っていっても2006年の作品だけど)『レディ・イン・ザ・ウォーター』のDVDやっと見れたんだけど…。なんじゃ?このクソ映画は。カルト教団のPRビデオかyo。いったいどーしたんだシャマラン!!

シャマラン好き、特に『サイン』が大好きで、どっかの掲示板で叩かれてるのを見ては黙ってられずに何度も擁護してた僕としても、今回の『レディ・イン・ザ…』だけは残念ながら完全な駄作としかいいようがない。

「それでも『サイン』に比べれば大分マシなんじゃないの?」って人も多いと思う。
それほど『サイン』の評価は低くて、最低映画のランキングなんかやると必ずランクインしてる。
でも、たいていはこの映画を見誤ってる人の不当に低い評価なんだよね。あんなに面白くてよく出来てる映画なのに…。

なので『レディ・イン・ザ…』への批評の前に、「稀に見るへっぽこ映画」の烙印を押されたまま、未だ再評価の兆しすらない『サイン』という映画が、実はどれほど独創的で奥が深い作品だったのか、について書こうと思う。

『サイン』まず、あらすじ(※注ネタバレ)。
主人公の男(メル・ギブソン)は、以前は信仰心厚い牧師だったが、妻の事故死をきっかけに牧師をやめて、今は妻の弟(ホアキン・フェニックス)のトウモロコシ農場で一緒に働いている。なんで牧師をやめたか、っていうと、その「事故死」というのがとんでもなく悲惨で、しかも妻の死に際に聞いた最後の言葉っていうのが、
「見て。…打って。」
などというワケワカランものだったからだ。それまでは神の存在を微塵も疑わなかった牧師も、さすがにヘコんで「この世は無意味なんじゃねーのか?神なんてウソっぱちなんじゃねーのか?」という疑念とともに牧師をやめちゃう。
「この世は無意味だ。」
そう思いながらあらためて周りを見回してみると、自分の息子の「ゼンソクの発作」も、娘の「何回注意しても直らない、テレビの上に水の入ったコップを並べるヘンな癖」も、義理の弟の「自宅の壁に飾られた、将来メジャーリーガー間違いなしといわれた、昔記録的な飛距離をかっ飛ばしてたバット(でも今じゃ結局ただの農夫)」も、すべては「無意味・神の不在」の証明にしか思えないのだった。
そんなふうに毎日をウダウダ生きてた主人公なんだけど、ある時自分たちのトウモロコシ畑にミステリーサークルが出現する。そして、なんだかんだで、宇宙人(?)と遭遇するのだが、その宇宙人(?)というのが、最後に(?)を付けなけりゃしようがない感じの、東スポの記事からそのまま抜け出たような、ムーの読者にすら否定されかねないイカガワシイ奴で、実際に目撃したら逆に信じたくなくなるようなとんでもない奴なのだった!!
で、家族でビビりながらテレビのニュースを見てると、どうやらそんな奴でも一応地球侵略に来たらしく、しかも口から毒吐くかもしれないから気をつけろ、とのこと。そして「どうやら奴は水に弱いらしい」という独自情報も入手する。
テレビはいよいよ宇宙人(?)の本格的侵攻を伝え、主人公の一家も戸締りを固め警戒する。だが宇宙人(?)はついに家の内部に侵入し、主人公の息子に噂の毒ガス攻撃っぽいやつを仕掛ける。
けれど、息子は無事だった!!たぶんその時ゼンソクの発作が起こって、偶然にも呼吸をしていなかったからだろう。ほっとした元牧師の頭の中に、突如妻の最後の言葉
「見て。…打って。」
が響く。すると主人公の視界に、今まで気づかなかった例の「壁に掛けられた弟のバット」が飛び込んでくる。主人公は自身の閃きを信じそのバットを弟に投げ渡し「フルスイングしろ!!」と叫ぶ。弟は言われたとおり目の前の宇宙人(?)を、軸足に体重の乗った見事な打撃フォームでジャストミート!!たまらずよろけた宇宙人(?)はテレビにぶつかって、その衝撃で娘が並べてたコップの水が宇宙人(?)に降り注ぐ。なんか苦しんでるように見えるので、「水が弱点」というのもほんとうだったらしい。
宇宙人(?)は倒れた。よその家でも撃退に成功したようだ。こうして人類の危機(?)は去ったのだった…。
その後、主人公は明るい表情を取り戻し牧師に復職する。
「すべてに意味はあった!!一見無意味に思えることも、実は神が与えた重要なサインだったのだ。」
END

…んー、傑作だっ。あらすじ書いてるだけでオモシロい!!

で、この映画への批判は、だいたい以下の二点だと思う。

■その一■なんじゃ、あのショボい宇宙人は?ふざけてんの?
■その二■なんじゃ、あのオチは?ふざけてんの?

いーや、シャマランはふざけてません。
まず、あの宇宙人(?)についてだけど、主人公がいったい何に悩んでたのか考えれば、そして奴が滅びることで、晴れ晴れとした表情になり、彼の中の「神」が復活したことを考えるなら答えはカンタン。あの宇宙人(?)とは「無意味」の象徴なのダ。
つまり、この映画は「生きることの意味(生きるに足る物語)を失った男が無意味を打ち負かし、もう一度意味(物語)を勝ち取る」というお話なのです。
したがって、ここでいわれている「神」というのは「世界に意味・物語が存在する根拠」としての神で、「善・正義」の神ではない。だから通常の映画で神に敵対する者は大抵「悪」なんだけど、この映画での敵は「無意味」になるわけ。
で、改めてあのへなちょこ星人を「無意味の象徴」として眺めると、もうそれしかないだろってほど的確な造形に思えるでしょ。
たとえば、もしあれが「プレデター」みたいな奴だったら、「残忍さ」「高度な科学力」「優れた身体能力」などのいろんな「意味」が自ずと表れてしまう(ってよりも、そういった意味を元に造形されたんだから当然なんだけど)。「無意味」の象徴である以上、じっと見つめても(?)しか浮かんでこないようでなけりゃダメなのだ。その点あのへなちょこ星人は実に素晴らしかった。
こんな明快な比喩がまったくといっていいほど理解されなかったのは、たぶん「悪と」じゃなくて「無意味と戦う主人公」ってのが今までに例がないほど斬新だったためだろう。

で、二つ目の批判。無理やりコジツケたとしか思えないあのひどいオチ。
…なんだけど、実はまったくその通りで無理やりコジツケたんですよ。
ただし、コジツケた張本人はシャマランではなくて主人公の牧師なんだけど。
…えと、どーいうことかといえば、主人公が発見したと思った「サイン」とは、「神の啓示」でも「もともと隠されていた物事の本当の意味・真実」でもなくて、そのとき主人公の想像力からとっさに生まれた、ごく個人的な「連想」でしかないのね。つまり、この映画には最初から最後まで「神(普遍的真理)」なんて存在してないのだ!!
だから、この映画見て「なんじゃ、あのオチは」という感想はある意味まったく正しくて、もしも観客全員が文句なしに感動する見事なオチだったら逆に完全な失敗なわけ。だって、あれは神様でもプロの脚本家でもない、ごく普通のありふれた男(牧師)がその不条理な状況に対して自分自身で与えた、きわめて主観的な「解釈・意味」(思い込み)でしかないんだから。
(なんで「きわめて主観的」といえるかといえば、この映画見た人なら気づいたと思うけど、あの宇宙人(?)についての「客観的事実」ってのが、この映画ではまったく提示されてないのね。「誰かのウワサ」または「テレビ・ラジオの情報」だけ。
もしアレが本当に「恐怖の毒吐き人食い宇宙人」だったら、「円盤に乗り降りするところ」「吐いた毒ガスで人が死んでいくところ」「人を襲って喰ってるところ」というシーンが必ず入るだろう。もちろんそれらを排除したのは意図的で、「客観的・普遍的事実」の不在を表してる。結局アレが倒すべき極悪宇宙人だったかどうか、ってより、そもそもアレが宇宙人だったのかどうかすらこの映画の中の事実としては一切語ってないのだ!!)
なのでこの映画の立場としては、牧師が最初に抱いた疑念「この世は無意味で神なんかいない」ということこそが「正しかった」ってことで、牧師の「サイン(真理・神の啓示)の発見」はただの「思い込み」ってことになる。でも、たとえそれが「思い込み」で普遍的真理なんかじゃなくったって、その自分だけの「意味」が重要に思えたのなら、そしてそのことで生き生きとした生活が出来るのなら、それでいーじゃないかってことです。

…、とまあ、以上のように『サイン』は実に味わい深い作品なんだけど、この映画の、というか、シャマラン監督のほんとにスゴイところは、こんな「神なんていねーYO!!」っていう無神論的な映画を、
「世界に意味がない、神がいない、なんていう“間違った考え”に一度は囚われた男が、その後、神の奇跡を発見して信仰心を取り戻す感動の宗教物語」
に見せかけてしまう、堂々たるペテン師ぶりだろう。もっとも、そう見せかけなくちゃ米国他のキリスト教圏でバッシングされて興行成績に響く、どころかへたすりゃ過激なキリスト教原理主義者たちになにされるかわかんないって事情があるんだろうけど。
ってか、観客騙すどころかそもそも主演のメル・ギブソンが周知の通りガチガチのキリスト教右派なわけで、なんと身内の役者すら騙して使ってるのだ!!(まあ確かに彼以上にこの役にふさわしい役者はいないんだけど)
もしギブソンに自分が無神論者の映画に騙されて使われてたなんてことがバレたら、…きっと爆破装置のセットされた車のバンパーに片足を手錠でつながれて、「足を切る時間を10分やるっ」って糸ノコ投げつけられるだろう。
そんな危ない大ウソついてまで自分が撮りたい映画を撮ったシャマランは偉大なイカサマ野郎なのだ。

さて、で、新作の『レディ・イン・ザ・ウォーター』なんだけど…。
んー。今回はなかったことにしよう。
次回作、期待してます。

2007年8月 6日

本田透『喪男の哲学史』

本田透『喪男の哲学史』
なにこれー。本田透って有名なんですか?ぜんぜん知らなかった。
「喪男(モダン)」なんて2ちゃん語も知らなかった。ようするにモテないキモい負け組と呼ばれる人たちのことで、ってなんだ、僕のことだよ、それ。

んー、面白い。いや、面白いの一言では片付けられない、血を吐くような魂の叫び。

僕のようなキモい人が、この現実をどーにか生きていくための数少ない武器は「哲学」「音楽」「お笑い」であると常々思ってきたけど(※音楽については僕も、『キモい人のための音楽論』って駄文を書いてみたが。)、自身キモヲタでいらっしゃる本田さんもこの本で「キモい人にとっての哲学」を語ってる。
「勝ち組のモテ連中には哲学なんて本来まったく必要ない。キモい喪男こそ哲学を必要とし、またそれを生み出すのだ。知的なファッションを演出するモテアイテムとしてのみ哲学を利用するモテ野郎は氏ね」、と。

あなたは僕ですか?本田さん。
昔、僕がまだ離人症になりたてのころ、それまでは僕も信じていた社会の中のいろんな「シアワセ」が、いきなりぜんぶ自分と無関係になっちゃって、どーしていいかわかんなくて暗黒の隔絶空間の中でのたうち回ってた。
そんなとき読んだニーチェの『ツァラトストラ』は、えと、僕にとって、たとえば餓死寸前のビンボー人が読む『食べられる野草の本』みたいな究極の「実用書」だった。つまり、それ読まなきゃ死んじゃうかもしれないからどうしようもなしに読むのであって、「教養」のためでも「知的好奇心」のためでも、ましてやモテのためなんかじゃ絶対になかった。そんなゆとりなんてまったくない。
で、想像してほしいんだけど、もしその『食べられる野草の本』を片手に、地べた這いつくばって必死で野草の弁別をしてるキモいビンボー人に、ですよ、毎日大トロ食ってる金持ち野郎が近づいてきて「野草ってヘルシーなんだよね、いい本だよねそれ」とか言ったら、そりゃ「あっち行け。氏んじゃえ、ばーか!!」ってなるよね。

「ルサンチマン」って言葉の最近の使われ方にも「いかがなものか」と軽い調子で物申してたけど、実際はそうとう激怒してるんだろう。
彼ら勝ち組のモテには、ニーチェ自身が巨大なルサンチマンだということすら理解できないんじゃないかな。それがわかってんのなら、「ルサンチマン」を簡単に「弱者を糾弾するためのお手軽フレーズ」としてなんて使えないだろう。結局、「ルサンチマン」は、それを感じたものにしか理解できないと思う。ニーチェがキリスト教道徳の本質を「ルサンチマン」と見破ることができたのも、ニーチェ自身が並外れたルサンチマンだったから、ということでしょう。

そりゃ細かいことをいえば、あれ?って部分もある。たとえば、「脳科学と物理学が哲学を引き継いだ」とか、「言語から数学」へ、とか。
哲学と称して、単なるモテるためだけの無意味なレトリックの山にウンザリしてるのはわかるけど、でもウィトゲンシュタインのいう「言語」は、数学も含まれるんじゃないのかな(僕もあんまし詳しくないけど、たぶんそうだろう。)
だからウィトゲンシュタインのいう「言語の限界(世界の限界)」については、物理学でも数学でもやっぱり「語りえない」だろう。たとえば、茂木先生の「クオリア」なんてのも、どーにもならなくて途中で頓挫すると思う。技術力の問題ではなくて、原理的に取り扱えない問題、というのが確かに存在するし、その境界を見極めるのはやっぱり哲学しかないんじゃないかな。科学は突き進むだけだから。

まあ、そんなことを差し引いても、この本が素晴らしいことに変わりない。
特にキモい人は必読ですYO。

2007年4月27日

僕はイヌを信じない。

前回の「信じる」って、どうやればいいんだ?のつづき。

イヌ


家で飼ってるイヌ。
普段はよくなついてて、いうことも聞くんだけど、たまに噛む(笑)。
原因らしきものがわかるときもあれば、さっぱり見当がつかないときもある。
そんなわけで、僕はこいつのことをちっとも「信じてない」。
それでも僕はこいつが大好きだ。

だけど、もし仮に、僕を困らせることを絶対にしない「信頼できるイヌ」だったら、今以上にもっと好きになったのだろうか?
…いや、そんなことはない。まったくなにも変わらないだろう。というより、そういう僕の予想を超えた行動(たとえ悪いことでも)全部をひっくるめて「好き」だ、ということなんだと思う。
だとすれば、僕がこのイヌを「好き」だということと「信じる」ということとは、そもそも「なんの関係もない」ということになる。

イヌだけに限らず、よくいわれるような「好きだから信じている」とか「裏切られたから嫌いになる」なんてのは、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。
たとえば、(イヌの話の後で恐縮だが)自分の息子が強盗殺人のようなとんでもない凶悪事件を起こした場合でも、その親は「信じてたのに裏切られた」などとは決していわないだろうし、息子を急に嫌いになることもないだろう。
つまり、その愛情が深いほど「信じる」なんてどーでもよくなるんじゃないのか。

逆に「信じる」という言葉は、愛情など完全に無縁の事柄、たとえばビジネスなどの場面にこそ相応しく思える。なぜなら、自分が「本当に(無意識に)信じている」のではなくて、他者との関係の中で「信じる」という言葉を意図的に使う場合、それは「(いうまでもない)基本的な約束事」という意味だからだ。親しくない関係だからこそ、なにか問題が起きた場合に備えての「約束(契約)」が必要になるのだ。
だから、「信じていたのに裏切られた」という表現が最も適切なのは、親子でも夫婦でも友達でもなくて、たとえば耐震偽造の被害者や、不二家のケーキを毎日買っていた人たちだろう(…微妙に古っ)。

けれど、だとすれば、「信じることが大切」などというのは、ますますおかしな言い分だということになる。なぜなら、ビジネスでは企業は「信じさせる側」で、消費者が「信じる側」になるだろうが、消費者にとって必要なのは「信じる」なんてことじゃなくて極力「疑う」ことだからだ。
「信じることが大切」などというくだらない言説が広まって、得をするのはいったい誰か?
もちろん企業だ。企業にとっては消費者なんて馬鹿で騙されやすいほうがいいに決まっている。
で、前回の「なぜ文部科学省は『信じることは大切』などというふざけた妄言を規制しないのか?これじゃあ、日本人が馬鹿ばっかりになるだろが」の答えがはっきりした。企業優遇の自民党が規制なんかするわけない。国民が馬鹿なほうが助かるやつらは大勢いるのだ。

…とまあ、
『「信じることが大切」自民党陰謀説』
をでっち上げてみたわけだが、もともと政治に興味がない上に、社会正義とやらも持ち合わせてないので、さすがに無理があった…。
でも、この「信じることが大切」という言葉の「うさん臭さ」は、なんとなく理解してもらえたんじゃないかと思う。少なくとも「信じる」なんてことより「疑う」ことのほうがはるかに大切なのだ。

2007年4月21日

「信じる」って、どうやればいいんだ?

「信じることはとても大切で素晴らしいことだ」
今まで歌やらドラマやら漫画・アニメやらで散々言われ続けてきたことだけど、明らかに変だ。なぜそんなことをやたらと吹聴したがるのか、まったくどーかしてるとしか思えない。

たとえばよく学校もののドラマなんかのお決まりのパターンで、給食費かなにかが紛失して、担任の先生がひとりの生徒をつかまえて「おまえが盗ったんだろう」と問い詰める。で、結局その子は無実で、先生は「なぜもっと教え子のことを信じてやれなかったのか」と後悔する。…なんてのがある。
でも、ちょっとまってくれ。その先生の失敗は
「信じる心が足りなかったから」
なんてことじゃないだろ。
むしろ、「その子が犯人だ」と、あまりにも簡単に“信じた”ことこそが問題であり、
本当にそうなのか、他の可能性があるんじゃないか、と“疑う”ことができなかった頭の悪さこそが原因なんじゃないのか。
もしそれが冤罪だった刑事事件の場合ならば、
「警察・検察がもっと容疑者を信じていれば…」なんて馬鹿げたことをいう人はだれもいないはずだ。それなのに、学校や家庭などの日常の場面だと、とたんに「信じることの大切さ」という話になってしまう。
だが、ことの本質は全く同じなのだ。判断力・思考力の不足が真っ先に問われるべきことを、最初から心や道徳の話にすり替えてしまったらなにも見えなくなってしまうだろう。

それに、そもそも「信じる」って「よし、ひとつ信じてみるかっ!」みたいに意図してできるものなのだろうか?
…たとえば、
[1]投資信託のセールスマンから「儲かりまっせ」と言われた。
この場合なら
「よし、ひとつ信じてみるかっ!」ということが可能だろう。けれど、
[2]宗教関係の人から「神を信じなさい」って言われた。
のような場合、
「よし、ひとつ(神を)信じてみるかっ!」なんてことは、絶対にありえないだろう。

[1]の「よし、ひとつ信じてみるかっ!」は、一見、意図して「信じる」ことが可能な実例に見えるが、このような場合は「信じる」ではなくて、「賭ける」といったほうが正しいだろう。(能動的に「信じる」という場合は、まちがいなくこの「賭ける」という言葉の代用(誤用)だろう。)
この例でいえば、儲かるかどうか「半信半疑」であるにもかかわらず、欲のためにその疑惑を「えいやっ」と切捨てて、さらに相手を「信じる」ということで失敗した時に自己の責任を転嫁する予防線を張るわけだ。
だから、このような場合で「信じていたのに裏切られた」というのは、本当に信じていていたわけではなくて、実際はただ「賭けに負けた」ことへの言い訳なのだ。

それに比べて[2]の「神を信じる」という方が「信じる」という言葉の正しい意味での使われ方だろう。
「信じる」の定義はなにかといえば「(その人にとって)疑うことが出来ない」ということだ。
だから「よし、ひとつ信じてみるかっ!」が成り立たない。
つまりその人が本当に信じていることは、信じようと努力してそうなったわけではなくて、気づいたときにはすでに「100%信じていた」ということであり、信じるか疑うかの選択など最初からなかったのだ。なぜなら、そもそもそんな選択が可能な時点で「信じていない」ことになるからだ。(※「信じる」ということの1番顕著な例として「宗教」を取り上げたけど、僕自身はどんな宗教も一切信じてない。)

このように、本当に「信じる」ということは、能動的に(意図して)コントロールすることは不可能である。にもかかわらずそれが美徳であるかのような言説は、無意味どころか完全な「害悪」だろう。だって、なにかを「信じる」ことはその人の意志とは無縁のことで、どうにもならないことなのだ。にもかかわらず、「信じる」ことが出来ないからと自己嫌悪したり、他人から非難されたりしてしまうんだ!

「信じること=美徳」の害悪はそれだけに留まらない。
「信じる」ということは、信じようと思ってもできることではないが、「疑う」ことは疑う意志をもってそうすることができる。だから人が「信じなさい」といわれて出来るのは結局「疑わない」ことだけなのだ。
だがその「疑う」ことというのは、それ抜きでは「考える」ことができなくなるような、「最も基本的な思考」である重要な行為だ。だから「疑わない」ということは「考えない」ことであり、「信じなさい」というのは「考えてはダメだ」というのと同じなのだ。

しかし今日本でこの「信じることの大切さ」という妄言を1番盛んに伝えているのが、実にアニメや少年漫画誌のような子ども向けのメディアなのである。
…とんでもないことだ。まだ物の道理のわからない子どもに「考えることは悪いことだ」と教えてるようなもんだぞ。
なぜ文部科学省は「信じることが一番大事」のような
「馬鹿を大量発生させかねない危険な表現」
を規制しないのだろうか。暴力やエロの描写なんかより、はるかに子どもに悪影響があるのに。

2006年11月30日

悪魔の学校

ヒマなときに延々と考えてしまう具にも付かない「くだらないこと」がいくつかあって、その中のひとつに、
「落ちこぼれた天使は悪魔(堕天使)になるけど、悪魔って落ちこぼれないのかな?」
ってのがある。
…。
たとえばね、悪魔の世界に次世代を担う悪魔を育成する「悪魔学校」ってのがあるとすると(そりゃ学校くらいあるだろう)、いったいどういう生徒が優秀なのか?
悪魔の世界では当然「悪」が推奨されているはずで、学校の授業でも、最初は簡単な悪(膝カックン程度)から、徐々に高度な悪(大量虐殺レベル)までカリキュラムが組まれているんだと思う。
でも、そういった授業についていけない「落ちこぼれ」も必ず出てくると思うんだよね。
だとすると、悪のテストでいつも100点を取る優等生と、落ちこぼれ連中とでは、いったいどちらが本当の「悪」なんだろう?
テストで満点を取るような、「悪とは、かくあるべし」という、規範に実直であることは、むしろ「善」なんじゃないだろうか?
それよりも、たとえば、先生に隠れて電車でおばあさんに座席を譲ることのほうが、悪魔世界にとってはよほど「悪」なんじゃないだろうか。
…。これ、突き詰めて考えると、面白い結論にたどり着けそうな予感がする。
引き続き考えてみよう。

2006年11月28日

『崖っぷち犬』報道の功績。

最近爆笑したこと。…『崖っぷち犬』。
ギャハハなんじゃそれ。どういう冗談なんだ。最近「こどもの自殺」という「崖っぷち」な人たちの過熱報道の後、大々的に取り上げたのが「わんこ」かよ。

この前、僕が、
「こどもの自殺をなくすには「命の価値」という架空の相場を引き下げる必要がある」
みたいなこと書いたけど、
…やってくれました。まさに「命の価値」大暴落だよね。だって人の命もわんこの命も、マスコミ的には一緒だったんだもん。

自殺しようとしてる君、君の命の価値なんて、実はわんこと一緒なんだよ。どう?死ぬ気も失せたでしょ。

これ、例の「いのちの大切さ」を訴えるキャンペーンの一環なのかな?
だとしたらギャグとして出来すぎてる。
まるでトンチキな馬鹿げた事やってて、結果としてはうまくいってる(これ見たら脱力して死ぬ気も失せるわ)。ミスタービーンか?日本のマスコミは。

2006年11月24日

『真悟』作ってみた。

LightWaveっていう3Dのソフトで『真悟』作ってみた。っていっても、胴体部分はまだだし、気力もなくなったので今後完成するかどうかわからん。


shingo.jpg

知らない人に説明すると、真悟とは、楳図かずお先生の代表作『わたしは真悟』の主人公の「意識を持った産業用ロボット」です。
『わたしは真悟』は、ほとんど奇跡といっていい恐るべき傑作だから、読んでない人は死ぬ前に読んどいたほうがいいよ(現在中古でしか入手できないけどできれば文庫は避けよう。あの緻密な絵は文庫サイズでは収まらない)。

で、この作品の中に「こどもが終わる音」っていうのが出てくるんだけど、ただの文学的比喩表現かと思いきや、
…僕、実際に聞いたわ(笑)、それ。「こどもが終わる音」。
漫画では、ドミノ倒しのようなカタカタという、正確には「こどもの終わりが近づく音」なんだけど、僕の場合「こどもが終わった瞬間の音」。
中2の頃、一人で学校から帰る途中、いきなり何の前触れもなく、胸の中で「カタン」って何かが落ちる音がして、それ以来、こどものときの世界、「私」が「すべて」とつながってるような濃密で幸せな「今」に戻れなくなった。

それでこどもが終わって大人になったのか、というと、大人にもなりそこねたんだけどね。なんにもなれずに、なんでもない、なにか「変なもの」になった。
そして、その「変なもの」が「離人症」って呼ばれてることをここ数年前に知ったんだけど、同時にそれがなんの福音にもなんないことも知った。だって精神医学の専門家でも「それ」について特に僕以上に知ってるってわけでもなくて、似たようなことを訴える人をまとめて「とりあえず名前つけときました」程度だと分かったから。そもそもそれが病気かどうかすらわからないし、精神医学や心理学という方法で今後解明されるかどうかもあやしい(アプローチ自体違っている気がする)。ただ、名前がついてるとなにかと便利なんで、僕も「離人症」って呼ぶことにしたけど。
まあ、離人症についてはいずれ詳しく書くつもりだけど、そんなわけで僕にとって楳図先生の『わたしは真悟』や『14歳』(14歳で世界が終わる話)って作品は、なんかよけいに思い入れが強いんだよね。「こどもの終わり」の境界を、いやってほどはっきり自覚させられたから、「こども」がどれだけ、どんなふうに素晴らしいか痛感してるし、恐らくそういった「こどもの世界」に戻るという不可能事を切望したのは、楳図先生にも負けてないんじゃないかと思う。

前に2ちゃんに数回書き込んだ『わたしは真悟論』みたいなやつを、加筆修正して近々アップする予定。

追記12/4
とりあえずアップ完了。(あとからすこし書き足すかも)
解読『わたしは真悟』?こどもの世界・大人の世界?

2006年11月14日

「命の大切さ」なんて教える必要ない。

頻発するいじめによる自殺について、なにやらさかんに
「命の大切さを教える必要性」
みたいなことが言われてるけど、完全な読み間違いだ。
こどもが自殺するのは「命の大切さを知らないから」などではない。

「自殺」ではなくて、こどもによる「殺人」の多発についてなら、確かに、「命の大切さ」を教えることは必要だろう。
「人を殺してはいけない」というのは突き詰めて考えた場合、実は、「なぜいけないか」という根拠がない(信じられないかもしれないけど、そうなのだ)。つまり、それは元からある真実なんかじゃなくて、共同体を維持するために、後からこしらえた約束事なんだ。
だからこそ逆に、こどもには「すべての人の命には価値がある」という道徳や、それを奪った場合の法的制裁を「教える」必要がある。なぜなら、それは人がもともと持っていない知識であり、教えなければ知らないことだからだ。

でも「自殺」は「殺人」とは全く違う。だって自分の命を大切にする(死を回避する)のは「本能」だよ。およそ生物であるなら、それこそゾウリムシだって「自分の命が大切」だと知ってるだろう。
そんな遺伝子レベルでの最も深く確実な知識なんだから、たとえどれほど記憶を失おうが、生きている以上「自分の命の大切さを知らない」なんてことはありえない。
当然、自殺する子だって、自分の命が大切なんてことは十分承知した上で、それでも死んでいったんだよ。

なのに「自殺をするのは命の大切さを知らないからだ」などという、おもしろいことを言う人が多いのは、
「人の命を奪うこと」と、「自分の命を絶つこと」という、本質的に全く異なる二つのことを、「命の大切さ」なんて言葉で一緒くたにして考えてるからだ。
しかも、そういう場合の「命の大切さ」という言葉は、個人の本能ではなくて、絶対普遍の「命の価値」という道徳的意味でのみ使われる。

もういちどいうけど、「殺人は悪だ」というのは「共同体の維持」のために作られたルール、約束事だ。そして「すべての人の命は価値がある」という道徳も、真実ではなくて、そのルールをうまく教えるために作られた「嘘」だ。

まあ、たとえ嘘でも「人殺し」をしたがってる人に対しては「命の大切さ」という道徳に訴えるか、法でどう裁かれるかを説明するしかないだろう。
でも、「自殺」をしようとする人間に対して、「(すべての)命の大切さ」という道徳を説くのは、まったく必要のない見当はずれの行為だ。
なぜなら、自分の命が大切なのは、誰かに言われるまでもなく、それ以上知りようがないくらい十分に「知っている」ことだ。そしてその「個体の維持」という本能は確かな真実であり、「共同体の維持」のために作られた道徳という嘘よりも遥かに深く、重大なことだからだ。


しかも、こどものいじめによる自殺に「道徳」を説くのは「必要ない」どころか、とてもまずい逆効果になってしまう。

前にも書いたけど、いじめの自殺は自分をいじめた敵に対する「報復としての自爆攻撃」だ。そして、なぜ自殺が「攻撃」になるのかといえば、自分をいじめた相手に「大切な命」を失わせたという負債(傷)を負わせることになるからだ。

こう考えれば、いじめ自殺をやめさせるため「命の大切さ」を力説する、なんてことがいかに的外れのマヌケな行為かわかるだろう。「命の大切さ」を声高に叫ぶほど、それによって「命の価値」が上昇すればするほど、自殺に追い込んだ側の負債は増す。つまり復讐としての自殺は、より攻撃力がアップして効果的になるんだ。

なのにマスコミがやたらと「命の大切さ」なんてことをわめき散らすもんだから「命の価値」という架空の相場が高騰して、自殺しようとする子にとって「死ぬなら今だ」みたいな馬鹿げた状況になってしまった。
いじめ自殺の連鎖を引き起こしたのは完全に彼らの責任だろう。

「かけがえのない命」とかよくいわれるけど、そういうことですら、命を「交換可能な何か」にしているという皮肉。
「かけがえのない命」も、「だから価値がある」と帰結させれば、結局は「命一般」について普遍的な価値を与えることにしかならない。
そして「命」が「その人自身にとっての価値」を超越した、「他の誰にとっても価値がある貴重品」になってしまえば、それはヤフオクのように交換が可能になる。
自殺したこどもは、そうやって自分の命を「武器」に交換したんだ。

これはいじめ問題の根本的な解決にはならないけど、とりあえず「自殺」をやめさせることが目的なら、「(普遍的、絶対的な)命の価値」なんていう胡散臭いものを、今の高みから引きずり下ろす必要がある。
「命」のレートが暴落して、ティッシュペーパーくらいにしか交換できないことを知れば、みんな大事に自分の中にしまって置くだろう。

だから、自殺を考えるこどもにはたとえばこういうべきだ。

「本当のことを言おう。
君の命なんて他人にとってはなんの価値もない。
いや、君の、だけじゃない。僕の命でも、だれのでも、
好きでもない他人の命なんて本当はどうでもいいことなんだ。
それが、「とても価値のある大切なこと」だというのは、
全部大人が作った「嘘」だ。
だから、

とても残念なことだけど、
君の勇気を振り絞ったただ一度の反撃は完全な失敗に、
ただの犬死に終わるだろう。
君が恐怖と憎悪と苦痛の中、
命と引き換えに手に入れようとする武器は、
元が嘘から作られたまがい物の剣なんだ。
それは見てくれは立派でも、鋼ではなくてスチロールでできてる。
そんな武器では君が死ぬほど憎んだ敵に、まともな傷は負わせられないんだ。

君が死んでも、やつらが苦しむのは最初だけさ。きっとすぐに忘れてしまう。
やがて普通においしいものを食べたり、
くだらないテレビを見て笑ったり、
誰かとセックスするようになる。

君の外側に「本当の命の価値」なんてものがあるわけじゃない。
そして、君以上に君の命の大切さを知っている人間なんて世の中に存在しないんだ。

自分で考えるんだ。

君にとってほんとに重要なことは全部、
君は知っているはずだから。
そして、それは君自身しか知りえないことなんだ。」

2006年11月 1日

『見てないものこそ。ゲド批判-2-』

ゲド批判…。……2(笑)。
映画も見ずに、作中のたった一言のセリフからあれだけ叩いて、なお叩き足らないとは恐るべし『ゲド戦記』、っつか僕。
で、今回はちょっとややこしいことから書きます。
「道徳は権力だ。」
これ、考えればものすごく当たり前のことなんだけど、あんまり表立ってこういうこと言う人はいないよね(ニーチェとかのほかに)。
道徳は、ただでさえ神聖視されているのに、それに加えて善悪の判断という基本的思考で無意識的に使ってるから、道徳それ自体の批評が恐ろしく難しい。ようするにあまりに近すぎて客観的に見ることができなくて、だから批判も攻撃もうまく出来ないんだけど、その完璧な防御力自体がもうすでに「力」なんだよね。

実際に、道徳は権力、しかも世界中でだれも逆らえないようなかなり強力なやつで、でもやっぱり他の「力」と同じように、そこら中で武器として敵を痛めつけたり、権力者の道具になったり、金を生んだりしてる。
わかりやすい例では同和利権がらみのヤクザなんかがそう。「平等・人権」という道徳の錦の御旗を振りかざして金を脅し取る。鬼に金棒、ヤクザに道徳って感じで。
それと、いやな話なんだけど最近特に話題の「いじめによる自殺」、あれは「道徳を武器にした自爆攻撃」だろう。いじめの被害者に対して普通マスコミはこういう視点からの報道はしないけど、いじめの自殺は明らかに「復讐」の意図がある。物理的な攻撃が不可能な非力な子が、自分の命と引き換えにした最初で最後の攻撃が自殺なんだ。結果、それは敵(いじめた子)に対して「人を殺してしまった」という強力な心理的ダメージを与えることになる。

で、そういうことが「けしからん」とか「嘆かわしい」とか社会的正義をいいたいわけじゃないよ(そういう非難も、結局また道徳を持ち出さざるをえないわけで、気づかないうちに敵とおんなじ武器で戦ってるようなものだ)。
道徳が力なのは事実なんだから、そういう使い方をされるのもまた当前だろうし、むしろ同和利権ヤクザなんかは隠蔽されがちな「道徳=権力」という事実をあからさまにさらけ出してて、逆にその明快さが気持ちいいくらいだよ。

僕が耐え難いのは、その「道徳=権力」という事実に無自覚のまま、これ見よがしに道徳を振りかざして善人(笑)から金を吸い上げている、うすらぼんやりとした連中だ。しかも、こいつらがヤクザより性質が悪いのは、自分たちがなにか「良いことをしている」と本気で信じているんだ。
あ、大作ハリウッド映画なんかはいやじゃないよ(特に好きでもないけど)。「道徳の利権」に対して十分自覚的だし、きちんと商品として価値のあるものを創ってるから。彼らは「道徳・ヒューマニズム」という縛り(制限)の中で、いかに面白い作品を創作するかという、つまりはアーティストよりもアーティザンとしての………って、なんか僕がいうとすべてが皮肉にしか聞こえないかもしれないけど、これは全然皮肉じゃないです。実際ハリウッドの脚本家なんかものすごいレベルだと思う。要するに、彼らは尊敬に値するプロフェッショナルであり、ちっともうすらぼんやりなんかしてない、ということだ。

で、問題は、…お待たせしました(笑)、ジブリの『ゲド戦記』なんだけどね、いや、ゲド戦記ばっかり攻撃してるようだけど、前に書いた「道徳ロック」をはじめ似た例はそれこそいやってほどあるだろう。でも『ゲド戦記』はダメな部分があまりにも顕著だし、ぼくが宮崎駿監督、特に近年「難解でつまらなくなった」といわれるようになってからの、氏の正直で真摯な作品作りには本当に畏敬の念を覚えるから、その仕事を踏みにじるかのような『ゲド』は特に怒りを覚えるんだ。

でもいくらなんでも、映画も見ずに批判もなかろう、という向きもあるかも知んないけど、こんなものに1ルピアだって払いたくないんだよ。
それに、例えば、
もう一目見てフェイクと分かる偽ブランドのバッグについて「でもよく見ると縫製はまともだよ。」なんていってみてもしようがないだろ。
『ゲド戦記』もそれ同様、ひと目でインチキと判断できるんだから細部など見る必要ありません。
優れた作品の「素晴らしさ」は共通した要素じゃない。だから一部分を取り上げて、他の類型から推測できないし、作品全体を通して評価するのは当然のことだ。
でも、腐った作品はどれも「同じように」腐ってる。無数にある偽ブランド品がすべて「ニセである」という共通項で切り捨てられるように、そのダメなものに共通する、ひとつの致命的類型だけ語れば、他を見る必要も語る必要もないんだ。
そして、『ゲド』にとっての致命的類型ってのがなにかといえば、同和利権ヤクザなんかと同じ、
「金を巻き上げるため以外になんの意味もない、権力としての道徳」
ってことだ。

だいたい
「命を大切にしないやつは大嫌いだっ!!」
などというただ道徳を振りまわすだけの知性のカケラもないセリフを、どうひっくり返したところでまともな人間にとっての意味なんて出てくるわけがないんだ。

そして、このふざけたセリフを「素朴なメッセージ」とか言い張るなら、同和利権ヤクザの「人権じゃっ!平等じゃっ!」だって「素朴なメッセージ」なんだよ。
ハリウッド映画みたいに手間ヒマ掛けて商品としての付加価値を付けた「道徳」じゃなくて、こうやってむき出しの「素の道徳」を持ち出してくるやつらはほんとに警戒したほうがいい。
だって、自分の力を一切使わずに道徳の権力を丸ごと拝借して、楽して金を巻き上げようっていう、ろくでもない連中なんだから。
僕が見たところ、そういう事を理解すらしてない「うすらぼんやりしたやつ」がゴロー監督で、それを操ってる「楽して金を儲けたいヤクザ」が鈴木プロデューサーなんだろう。当たってたらゴメン。

でも「道徳の力」を実感するのはまさにこういうときだよね。だって、例えば、どっかの映画監督が
「この作品が伝えたいメッセージは『象さんのお鼻は長い』です。」
とかいったら、だれだって、
「フザケんなっ。頭おかしいんじゃないの?そんなもん幼稚園児でも知ってるわっ!!」
ってなるだろうに、
「『命を大切にしよう』です。」
っていわれたら、怒るどころか、
「言ってることは正しい」みたいにみんな納得しちゃうんだもん。恐るべし道徳力。
正しい正しくない以前に、幼稚園児でも知ってることをわざわざアニメキャラにしゃべらせてなんの意味があるんだよ。人を馬鹿にするのもたいがいにしろよ。

ほんと道徳の威を借るだけで中身カラッポな悪徳「道徳商法」には1コロンビアペソだって払わないよう気を付けましょう。

2006年10月26日

ジブリ映画『ゲド戦記』の馬鹿なセリフ。(見てもいない映画評)

「命を大切にしないやつなんて大嫌いだっ!」

…なんか「感動的な名セリフ」っぽいこれ。なんなんだろ。ひどすぎる。この一言だけで本編を見るまでもなく完全な駄作と判断してまちがいないだろう。

これ、二重の意味で馬鹿馬鹿しいのだが、まず第一に、こどもでも知っている常識的な倫理観をわざわざ声に出して力説する恥かしさがある。「人殺しは悪いことだっ!!」みたいな。
さらにその常識を「?大嫌いだっ!」などと個人の感覚的な感想として述べているのが致命的だ。
すでに常識として定着している当たり前の悪を、好きだの嫌いだの言ってどーすんだ、と思う。
それってたとえばこんな会話と同じだぞ。

A子「あんたの大嫌いなタイプってどんなの?」
B子「えーと…、命を大切にしない系?つか「人殺し」、みたいな。」
A子「うそっ。あたしは、わりと好き。」

…ありえないだろ。

そして、もしこの言葉が「命を大切にしない」行為をやめさせるための説得という意味合いが込められているなら、いったいどういう状況で有効なのかがまったくわからない。
ちょっと以下の場面で相手に向かって
「命を大切にしないやつなんて大嫌いだ!」
と叫んでいるのを想像してみてほしい。

●ナイフを突きつける強盗に向かって?
●戦場の兵士に向かって?
●屋上から飛び降りようとしている自殺志願者に向かって?
●自爆テロを行うテロリストに向かって?
●イラク戦争を決定するブッシュに向かって?
●デューク東郷に向かって?

…んん、だめだ。説得されるどころか、頭がおかしいと思われるのが関の山だろう。コントですらなくて、むしろ不条理劇に近い…。

あっ、そうか、今まで「人間の命」だとばかり思ってたから「大嫌い」って言葉とのバランスを欠いていたのであって、「命」のほうをなにか「ものすごく軽いやつ」にすれば「大嫌い」と釣り合いが取れるんじゃないか?ちょっとやってみよう。

●アリの行列を一心不乱に踏み潰すアホなこどもに向かって?

これだっ! 
「命を大切にしない子は先生大嫌いですよっ!」
やっとしっくり来た。

■結論
「命を大切にしないやつなんて大嫌いだ!」
というセリフは、幼児に対してのみ意味を持つ極めて低レベルなセリフである。

追記(10/28)
一時は「幼児にだけ効果的なセリフ」という結論に達したのだが、驚くべきことにテルーはこのセリフを幼児よりもっと大っきな子に言っているらしい。しかも、「蟻んこの命」ではなくて、やはり「人間の命」の大切さについて訴えているようなのだ。

だとすると、もう少し考える必要がある。
先ほど箇条書きにした「命のやり取りがなされる具体的状況」で、あの「大嫌いだっ!!」が、どう考えても場違いなのは、当然「人の命が失われること」という重大事と「女の子に嫌われること」という軽めのリスクがまるで釣り合ってないからだ。
逆に「蟻んこを踏む園児を諭す先生」の場合、「蟻んこの殺戮」と「先生に嫌われること」のバランスがうまく取れているためリアリティがある。

だが、ゴロー監督はこのセリフを幼児向けのメッセージだとは考えてないなら、そしてそのことになんの不自然も感じていないとすれば、異常な結論に達せざるをえない。

つまり、ゴロー監督は「人の命」と「女の子に嫌われること」が釣り合っていると思っているのだ。

■結論2
ゴロー監督は(過去何があったか知らないが)「女の子に嫌われること」を「死に匹敵する重大事」と思っている。
でなければ、「人命」をたかだか「女の子に嫌われる」程度のことだと異常に軽視している。

あ、もうひとつ「人の命」と「大嫌い」が釣り合っていると考えてもおかしくない場合があった。
「アニメという虚構の中だけに限定した話」なら問題ない。人が何人死のうがフィクションなんだから、「重さ」なんてゼロだ。
だとすると、ゴロー監督は「アニメは現実に影響を与えるようなメッセージなど持ち得ない、所詮は絵空事」という、現実は現実、アニメはアニメと完全に割り切った非常にシビアな感覚の持ち主、ということになる。
「現実」や「作品の影響力」を意識するあまり勧善懲悪のわかりやすい娯楽作品がまったく創れなくなった父親とは大違いだ。

だが、そうだとすると新たな疑問が…。
「アニメのメッセージ」なんてものを鼻で笑うゴロー監督が、なぜ、純粋な娯楽作品ではなく「ゲド戦記」などというメッセージ性の強い原作の監督をしたのか?
この謎はあなたがぜひ劇場で、またはDVDを購入して確認して欲しい。ぼくはやだけど。

2006年10月15日

“愛”って過大評価されすぎでしょう。

愛は万能ではない。っていっても「愛の力で空飛べるか」とか、そんな子供の揚げ足取りみたいなことがいいたいわけじゃないよ。普通に愛でなんとかなりそうなこと、単純な「個人の心の中の苦しみ」ですら解決できない場合があるんだ。

心理学者のユングがまだ若くてクリスチャンだったころ、強迫観念というか、あるひとつのイメージにものすごく苦しめられたことがあるんだって。そのイメージっていうのは
「遥か上空に巨大な玉座に座った巨大な神がいる。でも、その玉座の、ちょうど神のケツが乗る部分に穴が開いていて、そこから神が漏らした糞尿が大量に地上に降り注がれる…」
と、まあこんな感じの。もう爆笑なんだけど、実際本人は死ぬほど苦しんだにちがいない。
で、この時のユングを、はたして愛で救うことは可能だろうか?たとえば世界最高レベルの愛のスペシャリストだったマザー・テレサなんかが、彼をハグして額にキスしたあと「それでも神はお許し下さるでしょう。」とかいったらどうだろう。
救われるどころか、なおさら死にたくなるんじゃないだろうか。
だっていくら「許された」ところで、そのイメージを思い浮かべることが悪であることになんら変わりがないし、こういう脅迫観念は本人の意思で制御できるものじゃないから、罪を許してくださる慈愛に満ちた神を、なおも侮辱し続けることになってしまうんだ。

で、結局ユングはどうしたかっていうと、彼の母親の「さっさとニーチェを読め」というナイスなアドバイスに従って救われることになる。
このときユングは、愛などの良識、一般的倫理道徳のシステムの中では絶対に解決できない深みにはまってしまっている。つまり世の中の常識の中には彼を救える言葉はもう一切存在しないんだ。だから、ニーチェのような日常ではまず耳にする機会などない“非常識”な言葉が必要になる。「考えてはいけないこと、または笑ってはいけないことなど存在しない」(実際にニーチェの著作の中にこんな文があるわけじゃないよ。いわゆる“大意”)みたいな。


先日ラジオで元ブルーハーツ(現なんだっけ?クロマニョンズ?)のヒロトが
「ロックンロールというのはつまり「(世の中の誰も認めてくれない)そんなお前だって生きていていい」と言ってやること」だ、みたいなこといっていて、これってニーチェの仕事と一緒なんだよね。要するに「常識から落ちこぼれたやつの救済」。優れたロックンロールはすべてその要素があると思う。
(逆に、僕が「道徳ロック」と呼ぶ「劣悪擬似ロック」、たとえば、「自分を捨てて誰かのために?♪」とか「必ず最後に愛は勝つ?♪」(古っ。)とかは、なんの意味もなくただ消費されるだけだろう。彼らがわざわざそんなことを言うまでもなく、それらの言葉はすでに“権力”と呼べるほど十分すぎるくらい、息苦しいくらい世界中に充満しているわけだし、まあ、結局彼らもただその力が生む利権だけが目当てなのだろうな。ハリウッド映画みたいに。)

話が横道にそれたけど、ユングのこの話がなんでこんなに印象深いのかっていえば、僕も「離人症」という変てこな病気(?)のおかげで、これとまったく似た経験をしたからだ。マザー・テレサでは決して救われない、どころか、そんなものが自分を苦しめる“敵”にしかならない状態。
ナチュラル・ボーン・キラーでもアウトローでもない善良な一小市民(笑)が、だよ、ほんとに突然「常識・倫理・道徳」が敵になる、そういうことがあるんだよ、マジで。
で、そうなった場合、逃げ道がほんとうにないんだ。まったく驚くほどこの世界にはね。そういう人間を肯定する言葉なんてどこにも見あたらない。
だからニーチェやブルーハーツはものすごく貴重なんだ。