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2006年10月 アーカイブ

2006年10月15日

“愛”って過大評価されすぎでしょう。

愛は万能ではない。っていっても「愛の力で空飛べるか」とか、そんな子供の揚げ足取りみたいなことがいいたいわけじゃないよ。普通に愛でなんとかなりそうなこと、単純な「個人の心の中の苦しみ」ですら解決できない場合があるんだ。

心理学者のユングがまだ若くてクリスチャンだったころ、強迫観念というか、あるひとつのイメージにものすごく苦しめられたことがあるんだって。そのイメージっていうのは
「遥か上空に巨大な玉座に座った巨大な神がいる。でも、その玉座の、ちょうど神のケツが乗る部分に穴が開いていて、そこから神が漏らした糞尿が大量に地上に降り注がれる…」
と、まあこんな感じの。もう爆笑なんだけど、実際本人は死ぬほど苦しんだにちがいない。
で、この時のユングを、はたして愛で救うことは可能だろうか?たとえば世界最高レベルの愛のスペシャリストだったマザー・テレサなんかが、彼をハグして額にキスしたあと「それでも神はお許し下さるでしょう。」とかいったらどうだろう。
救われるどころか、なおさら死にたくなるんじゃないだろうか。
だっていくら「許された」ところで、そのイメージを思い浮かべることが悪であることになんら変わりがないし、こういう脅迫観念は本人の意思で制御できるものじゃないから、罪を許してくださる慈愛に満ちた神を、なおも侮辱し続けることになってしまうんだ。

で、結局ユングはどうしたかっていうと、彼の母親の「さっさとニーチェを読め」というナイスなアドバイスに従って救われることになる。
このときユングは、愛などの良識、一般的倫理道徳のシステムの中では絶対に解決できない深みにはまってしまっている。つまり世の中の常識の中には彼を救える言葉はもう一切存在しないんだ。だから、ニーチェのような日常ではまず耳にする機会などない“非常識”な言葉が必要になる。「考えてはいけないこと、または笑ってはいけないことなど存在しない」(実際にニーチェの著作の中にこんな文があるわけじゃないよ。いわゆる“大意”)みたいな。


先日ラジオで元ブルーハーツ(現なんだっけ?クロマニョンズ?)のヒロトが
「ロックンロールというのはつまり「(世の中の誰も認めてくれない)そんなお前だって生きていていい」と言ってやること」だ、みたいなこといっていて、これってニーチェの仕事と一緒なんだよね。要するに「常識から落ちこぼれたやつの救済」。優れたロックンロールはすべてその要素があると思う。
(逆に、僕が「道徳ロック」と呼ぶ「劣悪擬似ロック」、たとえば、「自分を捨てて誰かのために?♪」とか「必ず最後に愛は勝つ?♪」(古っ。)とかは、なんの意味もなくただ消費されるだけだろう。彼らがわざわざそんなことを言うまでもなく、それらの言葉はすでに“権力”と呼べるほど十分すぎるくらい、息苦しいくらい世界中に充満しているわけだし、まあ、結局彼らもただその力が生む利権だけが目当てなのだろうな。ハリウッド映画みたいに。)

話が横道にそれたけど、ユングのこの話がなんでこんなに印象深いのかっていえば、僕も「離人症」という変てこな病気(?)のおかげで、これとまったく似た経験をしたからだ。マザー・テレサでは決して救われない、どころか、そんなものが自分を苦しめる“敵”にしかならない状態。
ナチュラル・ボーン・キラーでもアウトローでもない善良な一小市民(笑)が、だよ、ほんとに突然「常識・倫理・道徳」が敵になる、そういうことがあるんだよ、マジで。
で、そうなった場合、逃げ道がほんとうにないんだ。まったく驚くほどこの世界にはね。そういう人間を肯定する言葉なんてどこにも見あたらない。
だからニーチェやブルーハーツはものすごく貴重なんだ。

2006年10月26日

ジブリ映画『ゲド戦記』の馬鹿なセリフ。(見てもいない映画評)

「命を大切にしないやつなんて大嫌いだっ!」

…なんか「感動的な名セリフ」っぽいこれ。なんなんだろ。ひどすぎる。この一言だけで本編を見るまでもなく完全な駄作と判断してまちがいないだろう。

これ、二重の意味で馬鹿馬鹿しいのだが、まず第一に、こどもでも知っている常識的な倫理観をわざわざ声に出して力説する恥かしさがある。「人殺しは悪いことだっ!!」みたいな。
さらにその常識を「?大嫌いだっ!」などと個人の感覚的な感想として述べているのが致命的だ。
すでに常識として定着している当たり前の悪を、好きだの嫌いだの言ってどーすんだ、と思う。
それってたとえばこんな会話と同じだぞ。

A子「あんたの大嫌いなタイプってどんなの?」
B子「えーと…、命を大切にしない系?つか「人殺し」、みたいな。」
A子「うそっ。あたしは、わりと好き。」

…ありえないだろ。

そして、もしこの言葉が「命を大切にしない」行為をやめさせるための説得という意味合いが込められているなら、いったいどういう状況で有効なのかがまったくわからない。
ちょっと以下の場面で相手に向かって
「命を大切にしないやつなんて大嫌いだ!」
と叫んでいるのを想像してみてほしい。

●ナイフを突きつける強盗に向かって?
●戦場の兵士に向かって?
●屋上から飛び降りようとしている自殺志願者に向かって?
●自爆テロを行うテロリストに向かって?
●イラク戦争を決定するブッシュに向かって?
●デューク東郷に向かって?

…んん、だめだ。説得されるどころか、頭がおかしいと思われるのが関の山だろう。コントですらなくて、むしろ不条理劇に近い…。

あっ、そうか、今まで「人間の命」だとばかり思ってたから「大嫌い」って言葉とのバランスを欠いていたのであって、「命」のほうをなにか「ものすごく軽いやつ」にすれば「大嫌い」と釣り合いが取れるんじゃないか?ちょっとやってみよう。

●アリの行列を一心不乱に踏み潰すアホなこどもに向かって?

これだっ! 
「命を大切にしない子は先生大嫌いですよっ!」
やっとしっくり来た。

■結論
「命を大切にしないやつなんて大嫌いだ!」
というセリフは、幼児に対してのみ意味を持つ極めて低レベルなセリフである。

追記(10/28)
一時は「幼児にだけ効果的なセリフ」という結論に達したのだが、驚くべきことにテルーはこのセリフを幼児よりもっと大っきな子に言っているらしい。しかも、「蟻んこの命」ではなくて、やはり「人間の命」の大切さについて訴えているようなのだ。

だとすると、もう少し考える必要がある。
先ほど箇条書きにした「命のやり取りがなされる具体的状況」で、あの「大嫌いだっ!!」が、どう考えても場違いなのは、当然「人の命が失われること」という重大事と「女の子に嫌われること」という軽めのリスクがまるで釣り合ってないからだ。
逆に「蟻んこを踏む園児を諭す先生」の場合、「蟻んこの殺戮」と「先生に嫌われること」のバランスがうまく取れているためリアリティがある。

だが、ゴロー監督はこのセリフを幼児向けのメッセージだとは考えてないなら、そしてそのことになんの不自然も感じていないとすれば、異常な結論に達せざるをえない。

つまり、ゴロー監督は「人の命」と「女の子に嫌われること」が釣り合っていると思っているのだ。

■結論2
ゴロー監督は(過去何があったか知らないが)「女の子に嫌われること」を「死に匹敵する重大事」と思っている。
でなければ、「人命」をたかだか「女の子に嫌われる」程度のことだと異常に軽視している。

あ、もうひとつ「人の命」と「大嫌い」が釣り合っていると考えてもおかしくない場合があった。
「アニメという虚構の中だけに限定した話」なら問題ない。人が何人死のうがフィクションなんだから、「重さ」なんてゼロだ。
だとすると、ゴロー監督は「アニメは現実に影響を与えるようなメッセージなど持ち得ない、所詮は絵空事」という、現実は現実、アニメはアニメと完全に割り切った非常にシビアな感覚の持ち主、ということになる。
「現実」や「作品の影響力」を意識するあまり勧善懲悪のわかりやすい娯楽作品がまったく創れなくなった父親とは大違いだ。

だが、そうだとすると新たな疑問が…。
「アニメのメッセージ」なんてものを鼻で笑うゴロー監督が、なぜ、純粋な娯楽作品ではなく「ゲド戦記」などというメッセージ性の強い原作の監督をしたのか?
この謎はあなたがぜひ劇場で、またはDVDを購入して確認して欲しい。ぼくはやだけど。

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