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“愛”って過大評価されすぎでしょう。

愛は万能ではない。っていっても「愛の力で空飛べるか」とか、そんな子供の揚げ足取りみたいなことがいいたいわけじゃないよ。普通に愛でなんとかなりそうなこと、単純な「個人の心の中の苦しみ」ですら解決できない場合があるんだ。

心理学者のユングがまだ若くてクリスチャンだったころ、強迫観念というか、あるひとつのイメージにものすごく苦しめられたことがあるんだって。そのイメージっていうのは
「遥か上空に巨大な玉座に座った巨大な神がいる。でも、その玉座の、ちょうど神のケツが乗る部分に穴が開いていて、そこから神が漏らした糞尿が大量に地上に降り注がれる…」
と、まあこんな感じの。もう爆笑なんだけど、実際本人は死ぬほど苦しんだにちがいない。
で、この時のユングを、はたして愛で救うことは可能だろうか?たとえば世界最高レベルの愛のスペシャリストだったマザー・テレサなんかが、彼をハグして額にキスしたあと「それでも神はお許し下さるでしょう。」とかいったらどうだろう。
救われるどころか、なおさら死にたくなるんじゃないだろうか。
だっていくら「許された」ところで、そのイメージを思い浮かべることが悪であることになんら変わりがないし、こういう脅迫観念は本人の意思で制御できるものじゃないから、罪を許してくださる慈愛に満ちた神を、なおも侮辱し続けることになってしまうんだ。

で、結局ユングはどうしたかっていうと、彼の母親の「さっさとニーチェを読め」というナイスなアドバイスに従って救われることになる。
このときユングは、愛などの良識、一般的倫理道徳のシステムの中では絶対に解決できない深みにはまってしまっている。つまり世の中の常識の中には彼を救える言葉はもう一切存在しないんだ。だから、ニーチェのような日常ではまず耳にする機会などない“非常識”な言葉が必要になる。「考えてはいけないこと、または笑ってはいけないことなど存在しない」(実際にニーチェの著作の中にこんな文があるわけじゃないよ。いわゆる“大意”)みたいな。


先日ラジオで元ブルーハーツ(現なんだっけ?クロマニョンズ?)のヒロトが
「ロックンロールというのはつまり「(世の中の誰も認めてくれない)そんなお前だって生きていていい」と言ってやること」だ、みたいなこといっていて、これってニーチェの仕事と一緒なんだよね。要するに「常識から落ちこぼれたやつの救済」。優れたロックンロールはすべてその要素があると思う。
(逆に、僕が「道徳ロック」と呼ぶ「劣悪擬似ロック」、たとえば、「自分を捨てて誰かのために?♪」とか「必ず最後に愛は勝つ?♪」(古っ。)とかは、なんの意味もなくただ消費されるだけだろう。彼らがわざわざそんなことを言うまでもなく、それらの言葉はすでに“権力”と呼べるほど十分すぎるくらい、息苦しいくらい世界中に充満しているわけだし、まあ、結局彼らもただその力が生む利権だけが目当てなのだろうな。ハリウッド映画みたいに。)

話が横道にそれたけど、ユングのこの話がなんでこんなに印象深いのかっていえば、僕も「離人症」という変てこな病気(?)のおかげで、これとまったく似た経験をしたからだ。マザー・テレサでは決して救われない、どころか、そんなものが自分を苦しめる“敵”にしかならない状態。
ナチュラル・ボーン・キラーでもアウトローでもない善良な一小市民(笑)が、だよ、ほんとに突然「常識・倫理・道徳」が敵になる、そういうことがあるんだよ、マジで。
で、そうなった場合、逃げ道がほんとうにないんだ。まったく驚くほどこの世界にはね。そういう人間を肯定する言葉なんてどこにも見あたらない。
だからニーチェやブルーハーツはものすごく貴重なんだ。

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コメント (1)

匿名:

たまたまこのサイトにたどりついたけれど、
ここを見れてよかった。私は自分で考えるのはすごく苦手
だけれど、誰かが考えているのを見ているのは好きなんだ。
自分ではうまく言えないから、憧れみたいなものを持って
いるんだと思う。頭の悪い文章を書いて悪いと思うけど、
読んでいて楽しかったということが言いたかった。

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2006年10月15日 15:07に投稿されたエントリーのページです。

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