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2006年11月 アーカイブ

2006年11月 1日

『見てないものこそ。ゲド批判-2-』

ゲド批判…。……2(笑)。
映画も見ずに、作中のたった一言のセリフからあれだけ叩いて、なお叩き足らないとは恐るべし『ゲド戦記』、っつか僕。
で、今回はちょっとややこしいことから書きます。
「道徳は権力だ。」
これ、考えればものすごく当たり前のことなんだけど、あんまり表立ってこういうこと言う人はいないよね(ニーチェとかのほかに)。
道徳は、ただでさえ神聖視されているのに、それに加えて善悪の判断という基本的思考で無意識的に使ってるから、道徳それ自体の批評が恐ろしく難しい。ようするにあまりに近すぎて客観的に見ることができなくて、だから批判も攻撃もうまく出来ないんだけど、その完璧な防御力自体がもうすでに「力」なんだよね。

実際に、道徳は権力、しかも世界中でだれも逆らえないようなかなり強力なやつで、でもやっぱり他の「力」と同じように、そこら中で武器として敵を痛めつけたり、権力者の道具になったり、金を生んだりしてる。
わかりやすい例では同和利権がらみのヤクザなんかがそう。「平等・人権」という道徳の錦の御旗を振りかざして金を脅し取る。鬼に金棒、ヤクザに道徳って感じで。
それと、いやな話なんだけど最近特に話題の「いじめによる自殺」、あれは「道徳を武器にした自爆攻撃」だろう。いじめの被害者に対して普通マスコミはこういう視点からの報道はしないけど、いじめの自殺は明らかに「復讐」の意図がある。物理的な攻撃が不可能な非力な子が、自分の命と引き換えにした最初で最後の攻撃が自殺なんだ。結果、それは敵(いじめた子)に対して「人を殺してしまった」という強力な心理的ダメージを与えることになる。

で、そういうことが「けしからん」とか「嘆かわしい」とか社会的正義をいいたいわけじゃないよ(そういう非難も、結局また道徳を持ち出さざるをえないわけで、気づかないうちに敵とおんなじ武器で戦ってるようなものだ)。
道徳が力なのは事実なんだから、そういう使い方をされるのもまた当前だろうし、むしろ同和利権ヤクザなんかは隠蔽されがちな「道徳=権力」という事実をあからさまにさらけ出してて、逆にその明快さが気持ちいいくらいだよ。

僕が耐え難いのは、その「道徳=権力」という事実に無自覚のまま、これ見よがしに道徳を振りかざして善人(笑)から金を吸い上げている、うすらぼんやりとした連中だ。しかも、こいつらがヤクザより性質が悪いのは、自分たちがなにか「良いことをしている」と本気で信じているんだ。
あ、大作ハリウッド映画なんかはいやじゃないよ(特に好きでもないけど)。「道徳の利権」に対して十分自覚的だし、きちんと商品として価値のあるものを創ってるから。彼らは「道徳・ヒューマニズム」という縛り(制限)の中で、いかに面白い作品を創作するかという、つまりはアーティストよりもアーティザンとしての………って、なんか僕がいうとすべてが皮肉にしか聞こえないかもしれないけど、これは全然皮肉じゃないです。実際ハリウッドの脚本家なんかものすごいレベルだと思う。要するに、彼らは尊敬に値するプロフェッショナルであり、ちっともうすらぼんやりなんかしてない、ということだ。

で、問題は、…お待たせしました(笑)、ジブリの『ゲド戦記』なんだけどね、いや、ゲド戦記ばっかり攻撃してるようだけど、前に書いた「道徳ロック」をはじめ似た例はそれこそいやってほどあるだろう。でも『ゲド戦記』はダメな部分があまりにも顕著だし、ぼくが宮崎駿監督、特に近年「難解でつまらなくなった」といわれるようになってからの、氏の正直で真摯な作品作りには本当に畏敬の念を覚えるから、その仕事を踏みにじるかのような『ゲド』は特に怒りを覚えるんだ。

でもいくらなんでも、映画も見ずに批判もなかろう、という向きもあるかも知んないけど、こんなものに1ルピアだって払いたくないんだよ。
それに、例えば、
もう一目見てフェイクと分かる偽ブランドのバッグについて「でもよく見ると縫製はまともだよ。」なんていってみてもしようがないだろ。
『ゲド戦記』もそれ同様、ひと目でインチキと判断できるんだから細部など見る必要ありません。
優れた作品の「素晴らしさ」は共通した要素じゃない。だから一部分を取り上げて、他の類型から推測できないし、作品全体を通して評価するのは当然のことだ。
でも、腐った作品はどれも「同じように」腐ってる。無数にある偽ブランド品がすべて「ニセである」という共通項で切り捨てられるように、そのダメなものに共通する、ひとつの致命的類型だけ語れば、他を見る必要も語る必要もないんだ。
そして、『ゲド』にとっての致命的類型ってのがなにかといえば、同和利権ヤクザなんかと同じ、
「金を巻き上げるため以外になんの意味もない、権力としての道徳」
ってことだ。

だいたい
「命を大切にしないやつは大嫌いだっ!!」
などというただ道徳を振りまわすだけの知性のカケラもないセリフを、どうひっくり返したところでまともな人間にとっての意味なんて出てくるわけがないんだ。

そして、このふざけたセリフを「素朴なメッセージ」とか言い張るなら、同和利権ヤクザの「人権じゃっ!平等じゃっ!」だって「素朴なメッセージ」なんだよ。
ハリウッド映画みたいに手間ヒマ掛けて商品としての付加価値を付けた「道徳」じゃなくて、こうやってむき出しの「素の道徳」を持ち出してくるやつらはほんとに警戒したほうがいい。
だって、自分の力を一切使わずに道徳の権力を丸ごと拝借して、楽して金を巻き上げようっていう、ろくでもない連中なんだから。
僕が見たところ、そういう事を理解すらしてない「うすらぼんやりしたやつ」がゴロー監督で、それを操ってる「楽して金を儲けたいヤクザ」が鈴木プロデューサーなんだろう。当たってたらゴメン。

でも「道徳の力」を実感するのはまさにこういうときだよね。だって、例えば、どっかの映画監督が
「この作品が伝えたいメッセージは『象さんのお鼻は長い』です。」
とかいったら、だれだって、
「フザケんなっ。頭おかしいんじゃないの?そんなもん幼稚園児でも知ってるわっ!!」
ってなるだろうに、
「『命を大切にしよう』です。」
っていわれたら、怒るどころか、
「言ってることは正しい」みたいにみんな納得しちゃうんだもん。恐るべし道徳力。
正しい正しくない以前に、幼稚園児でも知ってることをわざわざアニメキャラにしゃべらせてなんの意味があるんだよ。人を馬鹿にするのもたいがいにしろよ。

ほんと道徳の威を借るだけで中身カラッポな悪徳「道徳商法」には1コロンビアペソだって払わないよう気を付けましょう。

2006年11月14日

「命の大切さ」なんて教える必要ない。

頻発するいじめによる自殺について、なにやらさかんに
「命の大切さを教える必要性」
みたいなことが言われてるけど、完全な読み間違いだ。
こどもが自殺するのは「命の大切さを知らないから」などではない。

「自殺」ではなくて、こどもによる「殺人」の多発についてなら、確かに、「命の大切さ」を教えることは必要だろう。
「人を殺してはいけない」というのは突き詰めて考えた場合、実は、「なぜいけないか」という根拠がない(信じられないかもしれないけど、そうなのだ)。つまり、それは元からある真実なんかじゃなくて、共同体を維持するために、後からこしらえた約束事なんだ。
だからこそ逆に、こどもには「すべての人の命には価値がある」という道徳や、それを奪った場合の法的制裁を「教える」必要がある。なぜなら、それは人がもともと持っていない知識であり、教えなければ知らないことだからだ。

でも「自殺」は「殺人」とは全く違う。だって自分の命を大切にする(死を回避する)のは「本能」だよ。およそ生物であるなら、それこそゾウリムシだって「自分の命が大切」だと知ってるだろう。
そんな遺伝子レベルでの最も深く確実な知識なんだから、たとえどれほど記憶を失おうが、生きている以上「自分の命の大切さを知らない」なんてことはありえない。
当然、自殺する子だって、自分の命が大切なんてことは十分承知した上で、それでも死んでいったんだよ。

なのに「自殺をするのは命の大切さを知らないからだ」などという、おもしろいことを言う人が多いのは、
「人の命を奪うこと」と、「自分の命を絶つこと」という、本質的に全く異なる二つのことを、「命の大切さ」なんて言葉で一緒くたにして考えてるからだ。
しかも、そういう場合の「命の大切さ」という言葉は、個人の本能ではなくて、絶対普遍の「命の価値」という道徳的意味でのみ使われる。

もういちどいうけど、「殺人は悪だ」というのは「共同体の維持」のために作られたルール、約束事だ。そして「すべての人の命は価値がある」という道徳も、真実ではなくて、そのルールをうまく教えるために作られた「嘘」だ。

まあ、たとえ嘘でも「人殺し」をしたがってる人に対しては「命の大切さ」という道徳に訴えるか、法でどう裁かれるかを説明するしかないだろう。
でも、「自殺」をしようとする人間に対して、「(すべての)命の大切さ」という道徳を説くのは、まったく必要のない見当はずれの行為だ。
なぜなら、自分の命が大切なのは、誰かに言われるまでもなく、それ以上知りようがないくらい十分に「知っている」ことだ。そしてその「個体の維持」という本能は確かな真実であり、「共同体の維持」のために作られた道徳という嘘よりも遥かに深く、重大なことだからだ。


しかも、こどものいじめによる自殺に「道徳」を説くのは「必要ない」どころか、とてもまずい逆効果になってしまう。

前にも書いたけど、いじめの自殺は自分をいじめた敵に対する「報復としての自爆攻撃」だ。そして、なぜ自殺が「攻撃」になるのかといえば、自分をいじめた相手に「大切な命」を失わせたという負債(傷)を負わせることになるからだ。

こう考えれば、いじめ自殺をやめさせるため「命の大切さ」を力説する、なんてことがいかに的外れのマヌケな行為かわかるだろう。「命の大切さ」を声高に叫ぶほど、それによって「命の価値」が上昇すればするほど、自殺に追い込んだ側の負債は増す。つまり復讐としての自殺は、より攻撃力がアップして効果的になるんだ。

なのにマスコミがやたらと「命の大切さ」なんてことをわめき散らすもんだから「命の価値」という架空の相場が高騰して、自殺しようとする子にとって「死ぬなら今だ」みたいな馬鹿げた状況になってしまった。
いじめ自殺の連鎖を引き起こしたのは完全に彼らの責任だろう。

「かけがえのない命」とかよくいわれるけど、そういうことですら、命を「交換可能な何か」にしているという皮肉。
「かけがえのない命」も、「だから価値がある」と帰結させれば、結局は「命一般」について普遍的な価値を与えることにしかならない。
そして「命」が「その人自身にとっての価値」を超越した、「他の誰にとっても価値がある貴重品」になってしまえば、それはヤフオクのように交換が可能になる。
自殺したこどもは、そうやって自分の命を「武器」に交換したんだ。

これはいじめ問題の根本的な解決にはならないけど、とりあえず「自殺」をやめさせることが目的なら、「(普遍的、絶対的な)命の価値」なんていう胡散臭いものを、今の高みから引きずり下ろす必要がある。
「命」のレートが暴落して、ティッシュペーパーくらいにしか交換できないことを知れば、みんな大事に自分の中にしまって置くだろう。

だから、自殺を考えるこどもにはたとえばこういうべきだ。

「本当のことを言おう。
君の命なんて他人にとってはなんの価値もない。
いや、君の、だけじゃない。僕の命でも、だれのでも、
好きでもない他人の命なんて本当はどうでもいいことなんだ。
それが、「とても価値のある大切なこと」だというのは、
全部大人が作った「嘘」だ。
だから、

とても残念なことだけど、
君の勇気を振り絞ったただ一度の反撃は完全な失敗に、
ただの犬死に終わるだろう。
君が恐怖と憎悪と苦痛の中、
命と引き換えに手に入れようとする武器は、
元が嘘から作られたまがい物の剣なんだ。
それは見てくれは立派でも、鋼ではなくてスチロールでできてる。
そんな武器では君が死ぬほど憎んだ敵に、まともな傷は負わせられないんだ。

君が死んでも、やつらが苦しむのは最初だけさ。きっとすぐに忘れてしまう。
やがて普通においしいものを食べたり、
くだらないテレビを見て笑ったり、
誰かとセックスするようになる。

君の外側に「本当の命の価値」なんてものがあるわけじゃない。
そして、君以上に君の命の大切さを知っている人間なんて世の中に存在しないんだ。

自分で考えるんだ。

君にとってほんとに重要なことは全部、
君は知っているはずだから。
そして、それは君自身しか知りえないことなんだ。」

2006年11月24日

『真悟』作ってみた。

LightWaveっていう3Dのソフトで『真悟』作ってみた。っていっても、胴体部分はまだだし、気力もなくなったので今後完成するかどうかわからん。


shingo.jpg

知らない人に説明すると、真悟とは、楳図かずお先生の代表作『わたしは真悟』の主人公の「意識を持った産業用ロボット」です。
『わたしは真悟』は、ほとんど奇跡といっていい恐るべき傑作だから、読んでない人は死ぬ前に読んどいたほうがいいよ(現在中古でしか入手できないけどできれば文庫は避けよう。あの緻密な絵は文庫サイズでは収まらない)。

で、この作品の中に「こどもが終わる音」っていうのが出てくるんだけど、ただの文学的比喩表現かと思いきや、
…僕、実際に聞いたわ(笑)、それ。「こどもが終わる音」。
漫画では、ドミノ倒しのようなカタカタという、正確には「こどもの終わりが近づく音」なんだけど、僕の場合「こどもが終わった瞬間の音」。
中2の頃、一人で学校から帰る途中、いきなり何の前触れもなく、胸の中で「カタン」って何かが落ちる音がして、それ以来、こどものときの世界、「私」が「すべて」とつながってるような濃密で幸せな「今」に戻れなくなった。

それでこどもが終わって大人になったのか、というと、大人にもなりそこねたんだけどね。なんにもなれずに、なんでもない、なにか「変なもの」になった。
そして、その「変なもの」が「離人症」って呼ばれてることをここ数年前に知ったんだけど、同時にそれがなんの福音にもなんないことも知った。だって精神医学の専門家でも「それ」について特に僕以上に知ってるってわけでもなくて、似たようなことを訴える人をまとめて「とりあえず名前つけときました」程度だと分かったから。そもそもそれが病気かどうかすらわからないし、精神医学や心理学という方法で今後解明されるかどうかもあやしい(アプローチ自体違っている気がする)。ただ、名前がついてるとなにかと便利なんで、僕も「離人症」って呼ぶことにしたけど。
まあ、離人症についてはいずれ詳しく書くつもりだけど、そんなわけで僕にとって楳図先生の『わたしは真悟』や『14歳』(14歳で世界が終わる話)って作品は、なんかよけいに思い入れが強いんだよね。「こどもの終わり」の境界を、いやってほどはっきり自覚させられたから、「こども」がどれだけ、どんなふうに素晴らしいか痛感してるし、恐らくそういった「こどもの世界」に戻るという不可能事を切望したのは、楳図先生にも負けてないんじゃないかと思う。

前に2ちゃんに数回書き込んだ『わたしは真悟論』みたいなやつを、加筆修正して近々アップする予定。

追記12/4
とりあえずアップ完了。(あとからすこし書き足すかも)
解読『わたしは真悟』?こどもの世界・大人の世界?

2006年11月28日

『崖っぷち犬』報道の功績。

最近爆笑したこと。…『崖っぷち犬』。
ギャハハなんじゃそれ。どういう冗談なんだ。最近「こどもの自殺」という「崖っぷち」な人たちの過熱報道の後、大々的に取り上げたのが「わんこ」かよ。

この前、僕が、
「こどもの自殺をなくすには「命の価値」という架空の相場を引き下げる必要がある」
みたいなこと書いたけど、
…やってくれました。まさに「命の価値」大暴落だよね。だって人の命もわんこの命も、マスコミ的には一緒だったんだもん。

自殺しようとしてる君、君の命の価値なんて、実はわんこと一緒なんだよ。どう?死ぬ気も失せたでしょ。

これ、例の「いのちの大切さ」を訴えるキャンペーンの一環なのかな?
だとしたらギャグとして出来すぎてる。
まるでトンチキな馬鹿げた事やってて、結果としてはうまくいってる(これ見たら脱力して死ぬ気も失せるわ)。ミスタービーンか?日本のマスコミは。

2006年11月30日

悪魔の学校

ヒマなときに延々と考えてしまう具にも付かない「くだらないこと」がいくつかあって、その中のひとつに、
「落ちこぼれた天使は悪魔(堕天使)になるけど、悪魔って落ちこぼれないのかな?」
ってのがある。
…。
たとえばね、悪魔の世界に次世代を担う悪魔を育成する「悪魔学校」ってのがあるとすると(そりゃ学校くらいあるだろう)、いったいどういう生徒が優秀なのか?
悪魔の世界では当然「悪」が推奨されているはずで、学校の授業でも、最初は簡単な悪(膝カックン程度)から、徐々に高度な悪(大量虐殺レベル)までカリキュラムが組まれているんだと思う。
でも、そういった授業についていけない「落ちこぼれ」も必ず出てくると思うんだよね。
だとすると、悪のテストでいつも100点を取る優等生と、落ちこぼれ連中とでは、いったいどちらが本当の「悪」なんだろう?
テストで満点を取るような、「悪とは、かくあるべし」という、規範に実直であることは、むしろ「善」なんじゃないだろうか?
それよりも、たとえば、先生に隠れて電車でおばあさんに座席を譲ることのほうが、悪魔世界にとってはよほど「悪」なんじゃないだろうか。
…。これ、突き詰めて考えると、面白い結論にたどり着けそうな予感がする。
引き続き考えてみよう。

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