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2007年4月 アーカイブ

2007年4月21日

「信じる」って、どうやればいいんだ?

「信じることはとても大切で素晴らしいことだ」
今まで歌やらドラマやら漫画・アニメやらで散々言われ続けてきたことだけど、明らかに変だ。なぜそんなことをやたらと吹聴したがるのか、まったくどーかしてるとしか思えない。

たとえばよく学校もののドラマなんかのお決まりのパターンで、給食費かなにかが紛失して、担任の先生がひとりの生徒をつかまえて「おまえが盗ったんだろう」と問い詰める。で、結局その子は無実で、先生は「なぜもっと教え子のことを信じてやれなかったのか」と後悔する。…なんてのがある。
でも、ちょっとまってくれ。その先生の失敗は
「信じる心が足りなかったから」
なんてことじゃないだろ。
むしろ、「その子が犯人だ」と、あまりにも簡単に“信じた”ことこそが問題であり、
本当にそうなのか、他の可能性があるんじゃないか、と“疑う”ことができなかった頭の悪さこそが原因なんじゃないのか。
もしそれが冤罪だった刑事事件の場合ならば、
「警察・検察がもっと容疑者を信じていれば…」なんて馬鹿げたことをいう人はだれもいないはずだ。それなのに、学校や家庭などの日常の場面だと、とたんに「信じることの大切さ」という話になってしまう。
だが、ことの本質は全く同じなのだ。判断力・思考力の不足が真っ先に問われるべきことを、最初から心や道徳の話にすり替えてしまったらなにも見えなくなってしまうだろう。

それに、そもそも「信じる」って「よし、ひとつ信じてみるかっ!」みたいに意図してできるものなのだろうか?
…たとえば、
[1]投資信託のセールスマンから「儲かりまっせ」と言われた。
この場合なら
「よし、ひとつ信じてみるかっ!」ということが可能だろう。けれど、
[2]宗教関係の人から「神を信じなさい」って言われた。
のような場合、
「よし、ひとつ(神を)信じてみるかっ!」なんてことは、絶対にありえないだろう。

[1]の「よし、ひとつ信じてみるかっ!」は、一見、意図して「信じる」ことが可能な実例に見えるが、このような場合は「信じる」ではなくて、「賭ける」といったほうが正しいだろう。(能動的に「信じる」という場合は、まちがいなくこの「賭ける」という言葉の代用(誤用)だろう。)
この例でいえば、儲かるかどうか「半信半疑」であるにもかかわらず、欲のためにその疑惑を「えいやっ」と切捨てて、さらに相手を「信じる」ということで失敗した時に自己の責任を転嫁する予防線を張るわけだ。
だから、このような場合で「信じていたのに裏切られた」というのは、本当に信じていていたわけではなくて、実際はただ「賭けに負けた」ことへの言い訳なのだ。

それに比べて[2]の「神を信じる」という方が「信じる」という言葉の正しい意味での使われ方だろう。
「信じる」の定義はなにかといえば「(その人にとって)疑うことが出来ない」ということだ。
だから「よし、ひとつ信じてみるかっ!」が成り立たない。
つまりその人が本当に信じていることは、信じようと努力してそうなったわけではなくて、気づいたときにはすでに「100%信じていた」ということであり、信じるか疑うかの選択など最初からなかったのだ。なぜなら、そもそもそんな選択が可能な時点で「信じていない」ことになるからだ。(※「信じる」ということの1番顕著な例として「宗教」を取り上げたけど、僕自身はどんな宗教も一切信じてない。)

このように、本当に「信じる」ということは、能動的に(意図して)コントロールすることは不可能である。にもかかわらずそれが美徳であるかのような言説は、無意味どころか完全な「害悪」だろう。だって、なにかを「信じる」ことはその人の意志とは無縁のことで、どうにもならないことなのだ。にもかかわらず、「信じる」ことが出来ないからと自己嫌悪したり、他人から非難されたりしてしまうんだ!

「信じること=美徳」の害悪はそれだけに留まらない。
「信じる」ということは、信じようと思ってもできることではないが、「疑う」ことは疑う意志をもってそうすることができる。だから人が「信じなさい」といわれて出来るのは結局「疑わない」ことだけなのだ。
だがその「疑う」ことというのは、それ抜きでは「考える」ことができなくなるような、「最も基本的な思考」である重要な行為だ。だから「疑わない」ということは「考えない」ことであり、「信じなさい」というのは「考えてはダメだ」というのと同じなのだ。

しかし今日本でこの「信じることの大切さ」という妄言を1番盛んに伝えているのが、実にアニメや少年漫画誌のような子ども向けのメディアなのである。
…とんでもないことだ。まだ物の道理のわからない子どもに「考えることは悪いことだ」と教えてるようなもんだぞ。
なぜ文部科学省は「信じることが一番大事」のような
「馬鹿を大量発生させかねない危険な表現」
を規制しないのだろうか。暴力やエロの描写なんかより、はるかに子どもに悪影響があるのに。

2007年4月27日

僕はイヌを信じない。

前回の「信じる」って、どうやればいいんだ?のつづき。

イヌ


家で飼ってるイヌ。
普段はよくなついてて、いうことも聞くんだけど、たまに噛む(笑)。
原因らしきものがわかるときもあれば、さっぱり見当がつかないときもある。
そんなわけで、僕はこいつのことをちっとも「信じてない」。
それでも僕はこいつが大好きだ。

だけど、もし仮に、僕を困らせることを絶対にしない「信頼できるイヌ」だったら、今以上にもっと好きになったのだろうか?
…いや、そんなことはない。まったくなにも変わらないだろう。というより、そういう僕の予想を超えた行動(たとえ悪いことでも)全部をひっくるめて「好き」だ、ということなんだと思う。
だとすれば、僕がこのイヌを「好き」だということと「信じる」ということとは、そもそも「なんの関係もない」ということになる。

イヌだけに限らず、よくいわれるような「好きだから信じている」とか「裏切られたから嫌いになる」なんてのは、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。
たとえば、(イヌの話の後で恐縮だが)自分の息子が強盗殺人のようなとんでもない凶悪事件を起こした場合でも、その親は「信じてたのに裏切られた」などとは決していわないだろうし、息子を急に嫌いになることもないだろう。
つまり、その愛情が深いほど「信じる」なんてどーでもよくなるんじゃないのか。

逆に「信じる」という言葉は、愛情など完全に無縁の事柄、たとえばビジネスなどの場面にこそ相応しく思える。なぜなら、自分が「本当に(無意識に)信じている」のではなくて、他者との関係の中で「信じる」という言葉を意図的に使う場合、それは「(いうまでもない)基本的な約束事」という意味だからだ。親しくない関係だからこそ、なにか問題が起きた場合に備えての「約束(契約)」が必要になるのだ。
だから、「信じていたのに裏切られた」という表現が最も適切なのは、親子でも夫婦でも友達でもなくて、たとえば耐震偽造の被害者や、不二家のケーキを毎日買っていた人たちだろう(…微妙に古っ)。

けれど、だとすれば、「信じることが大切」などというのは、ますますおかしな言い分だということになる。なぜなら、ビジネスでは企業は「信じさせる側」で、消費者が「信じる側」になるだろうが、消費者にとって必要なのは「信じる」なんてことじゃなくて極力「疑う」ことだからだ。
「信じることが大切」などというくだらない言説が広まって、得をするのはいったい誰か?
もちろん企業だ。企業にとっては消費者なんて馬鹿で騙されやすいほうがいいに決まっている。
で、前回の「なぜ文部科学省は『信じることは大切』などというふざけた妄言を規制しないのか?これじゃあ、日本人が馬鹿ばっかりになるだろが」の答えがはっきりした。企業優遇の自民党が規制なんかするわけない。国民が馬鹿なほうが助かるやつらは大勢いるのだ。

…とまあ、
『「信じることが大切」自民党陰謀説』
をでっち上げてみたわけだが、もともと政治に興味がない上に、社会正義とやらも持ち合わせてないので、さすがに無理があった…。
でも、この「信じることが大切」という言葉の「うさん臭さ」は、なんとなく理解してもらえたんじゃないかと思う。少なくとも「信じる」なんてことより「疑う」ことのほうがはるかに大切なのだ。

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