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2007年8月 アーカイブ

2007年8月 6日

本田透『喪男の哲学史』

本田透『喪男の哲学史』
なにこれー。本田透って有名なんですか?ぜんぜん知らなかった。
「喪男(モダン)」なんて2ちゃん語も知らなかった。ようするにモテないキモい負け組と呼ばれる人たちのことで、ってなんだ、僕のことだよ、それ。

んー、面白い。いや、面白いの一言では片付けられない、血を吐くような魂の叫び。

僕のようなキモい人が、この現実をどーにか生きていくための数少ない武器は「哲学」「音楽」「お笑い」であると常々思ってきたけど(※音楽については僕も、『キモい人のための音楽論』って駄文を書いてみたが。)、自身キモヲタでいらっしゃる本田さんもこの本で「キモい人にとっての哲学」を語ってる。
「勝ち組のモテ連中には哲学なんて本来まったく必要ない。キモい喪男こそ哲学を必要とし、またそれを生み出すのだ。知的なファッションを演出するモテアイテムとしてのみ哲学を利用するモテ野郎は氏ね」、と。

あなたは僕ですか?本田さん。
昔、僕がまだ離人症になりたてのころ、それまでは僕も信じていた社会の中のいろんな「シアワセ」が、いきなりぜんぶ自分と無関係になっちゃって、どーしていいかわかんなくて暗黒の隔絶空間の中でのたうち回ってた。
そんなとき読んだニーチェの『ツァラトストラ』は、えと、僕にとって、たとえば餓死寸前のビンボー人が読む『食べられる野草の本』みたいな究極の「実用書」だった。つまり、それ読まなきゃ死んじゃうかもしれないからどうしようもなしに読むのであって、「教養」のためでも「知的好奇心」のためでも、ましてやモテのためなんかじゃ絶対になかった。そんなゆとりなんてまったくない。
で、想像してほしいんだけど、もしその『食べられる野草の本』を片手に、地べた這いつくばって必死で野草の弁別をしてるキモいビンボー人に、ですよ、毎日大トロ食ってる金持ち野郎が近づいてきて「野草ってヘルシーなんだよね、いい本だよねそれ」とか言ったら、そりゃ「あっち行け。氏んじゃえ、ばーか!!」ってなるよね。

「ルサンチマン」って言葉の最近の使われ方にも「いかがなものか」と軽い調子で物申してたけど、実際はそうとう激怒してるんだろう。
彼ら勝ち組のモテには、ニーチェ自身が巨大なルサンチマンだということすら理解できないんじゃないかな。それがわかってんのなら、「ルサンチマン」を簡単に「弱者を糾弾するためのお手軽フレーズ」としてなんて使えないだろう。結局、「ルサンチマン」は、それを感じたものにしか理解できないと思う。ニーチェがキリスト教道徳の本質を「ルサンチマン」と見破ることができたのも、ニーチェ自身が並外れたルサンチマンだったから、ということでしょう。

そりゃ細かいことをいえば、あれ?って部分もある。たとえば、「脳科学と物理学が哲学を引き継いだ」とか、「言語から数学」へ、とか。
哲学と称して、単なるモテるためだけの無意味なレトリックの山にウンザリしてるのはわかるけど、でもウィトゲンシュタインのいう「言語」は、数学も含まれるんじゃないのかな(僕もあんまし詳しくないけど、たぶんそうだろう。)
だからウィトゲンシュタインのいう「言語の限界(世界の限界)」については、物理学でも数学でもやっぱり「語りえない」だろう。たとえば、茂木先生の「クオリア」なんてのも、どーにもならなくて途中で頓挫すると思う。技術力の問題ではなくて、原理的に取り扱えない問題、というのが確かに存在するし、その境界を見極めるのはやっぱり哲学しかないんじゃないかな。科学は突き進むだけだから。

まあ、そんなことを差し引いても、この本が素晴らしいことに変わりない。
特にキモい人は必読ですYO。

2007年8月 8日

M・ナイト・シャマラン監督『サイン』は名作なのだっ。

signs.jpg
こないだ、見ようと思って見損ねてたシャマランの新作(っていっても2006年の作品だけど)『レディ・イン・ザ・ウォーター』のDVDやっと見れたんだけど…。なんじゃ?このクソ映画は。カルト教団のPRビデオかyo。いったいどーしたんだシャマラン!!

シャマラン好き、特に『サイン』が大好きで、どっかの掲示板で叩かれてるのを見ては黙ってられずに何度も擁護してた僕としても、今回の『レディ・イン・ザ…』だけは残念ながら完全な駄作としかいいようがない。

「それでも『サイン』に比べれば大分マシなんじゃないの?」って人も多いと思う。
それほど『サイン』の評価は低くて、最低映画のランキングなんかやると必ずランクインしてる。
でも、たいていはこの映画を見誤ってる人の不当に低い評価なんだよね。あんなに面白くてよく出来てる映画なのに…。

なので『レディ・イン・ザ…』への批評の前に、「稀に見るへっぽこ映画」の烙印を押されたまま、未だ再評価の兆しすらない『サイン』という映画が、実はどれほど独創的で奥が深い作品だったのか、について書こうと思う。

『サイン』まず、あらすじ(※注ネタバレ)。
主人公の男(メル・ギブソン)は、以前は信仰心厚い牧師だったが、妻の事故死をきっかけに牧師をやめて、今は妻の弟(ホアキン・フェニックス)のトウモロコシ農場で一緒に働いている。なんで牧師をやめたか、っていうと、その「事故死」というのがとんでもなく悲惨で、しかも妻の死に際に聞いた最後の言葉っていうのが、
「見て。…打って。」
などというワケワカランものだったからだ。それまでは神の存在を微塵も疑わなかった牧師も、さすがにヘコんで「この世は無意味なんじゃねーのか?神なんてウソっぱちなんじゃねーのか?」という疑念とともに牧師をやめちゃう。
「この世は無意味だ。」
そう思いながらあらためて周りを見回してみると、自分の息子の「ゼンソクの発作」も、娘の「何回注意しても直らない、テレビの上に水の入ったコップを並べるヘンな癖」も、義理の弟の「自宅の壁に飾られた、将来メジャーリーガー間違いなしといわれた、昔記録的な飛距離をかっ飛ばしてたバット(でも今じゃ結局ただの農夫)」も、すべては「無意味・神の不在」の証明にしか思えないのだった。
そんなふうに毎日をウダウダ生きてた主人公なんだけど、ある時自分たちのトウモロコシ畑にミステリーサークルが出現する。そして、なんだかんだで、宇宙人(?)と遭遇するのだが、その宇宙人(?)というのが、最後に(?)を付けなけりゃしようがない感じの、東スポの記事からそのまま抜け出たような、ムーの読者にすら否定されかねないイカガワシイ奴で、実際に目撃したら逆に信じたくなくなるようなとんでもない奴なのだった!!
で、家族でビビりながらテレビのニュースを見てると、どうやらそんな奴でも一応地球侵略に来たらしく、しかも口から毒吐くかもしれないから気をつけろ、とのこと。そして「どうやら奴は水に弱いらしい」という独自情報も入手する。
テレビはいよいよ宇宙人(?)の本格的侵攻を伝え、主人公の一家も戸締りを固め警戒する。だが宇宙人(?)はついに家の内部に侵入し、主人公の息子に噂の毒ガス攻撃っぽいやつを仕掛ける。
けれど、息子は無事だった!!たぶんその時ゼンソクの発作が起こって、偶然にも呼吸をしていなかったからだろう。ほっとした元牧師の頭の中に、突如妻の最後の言葉
「見て。…打って。」
が響く。すると主人公の視界に、今まで気づかなかった例の「壁に掛けられた弟のバット」が飛び込んでくる。主人公は自身の閃きを信じそのバットを弟に投げ渡し「フルスイングしろ!!」と叫ぶ。弟は言われたとおり目の前の宇宙人(?)を、軸足に体重の乗った見事な打撃フォームでジャストミート!!たまらずよろけた宇宙人(?)はテレビにぶつかって、その衝撃で娘が並べてたコップの水が宇宙人(?)に降り注ぐ。なんか苦しんでるように見えるので、「水が弱点」というのもほんとうだったらしい。
宇宙人(?)は倒れた。よその家でも撃退に成功したようだ。こうして人類の危機(?)は去ったのだった…。
その後、主人公は明るい表情を取り戻し牧師に復職する。
「すべてに意味はあった!!一見無意味に思えることも、実は神が与えた重要なサインだったのだ。」
END

…んー、傑作だっ。あらすじ書いてるだけでオモシロい!!

で、この映画への批判は、だいたい以下の二点だと思う。

■その一■なんじゃ、あのショボい宇宙人は?ふざけてんの?
■その二■なんじゃ、あのオチは?ふざけてんの?

いーや、シャマランはふざけてません。
まず、あの宇宙人(?)についてだけど、主人公がいったい何に悩んでたのか考えれば、そして奴が滅びることで、晴れ晴れとした表情になり、彼の中の「神」が復活したことを考えるなら答えはカンタン。あの宇宙人(?)とは「無意味」の象徴なのダ。
つまり、この映画は「生きることの意味(生きるに足る物語)を失った男が無意味を打ち負かし、もう一度意味(物語)を勝ち取る」というお話なのです。
したがって、ここでいわれている「神」というのは「世界に意味・物語が存在する根拠」としての神で、「善・正義」の神ではない。だから通常の映画で神に敵対する者は大抵「悪」なんだけど、この映画での敵は「無意味」になるわけ。
で、改めてあのへなちょこ星人を「無意味の象徴」として眺めると、もうそれしかないだろってほど的確な造形に思えるでしょ。
たとえば、もしあれが「プレデター」みたいな奴だったら、「残忍さ」「高度な科学力」「優れた身体能力」などのいろんな「意味」が自ずと表れてしまう(ってよりも、そういった意味を元に造形されたんだから当然なんだけど)。「無意味」の象徴である以上、じっと見つめても(?)しか浮かんでこないようでなけりゃダメなのだ。その点あのへなちょこ星人は実に素晴らしかった。
こんな明快な比喩がまったくといっていいほど理解されなかったのは、たぶん「悪と」じゃなくて「無意味と戦う主人公」ってのが今までに例がないほど斬新だったためだろう。

で、二つ目の批判。無理やりコジツケたとしか思えないあのひどいオチ。
…なんだけど、実はまったくその通りで無理やりコジツケたんですよ。
ただし、コジツケた張本人はシャマランではなくて主人公の牧師なんだけど。
…えと、どーいうことかといえば、主人公が発見したと思った「サイン」とは、「神の啓示」でも「もともと隠されていた物事の本当の意味・真実」でもなくて、そのとき主人公の想像力からとっさに生まれた、ごく個人的な「連想」でしかないのね。つまり、この映画には最初から最後まで「神(普遍的真理)」なんて存在してないのだ!!
だから、この映画見て「なんじゃ、あのオチは」という感想はある意味まったく正しくて、もしも観客全員が文句なしに感動する見事なオチだったら逆に完全な失敗なわけ。だって、あれは神様でもプロの脚本家でもない、ごく普通のありふれた男(牧師)がその不条理な状況に対して自分自身で与えた、きわめて主観的な「解釈・意味」(思い込み)でしかないんだから。
(なんで「きわめて主観的」といえるかといえば、この映画見た人なら気づいたと思うけど、あの宇宙人(?)についての「客観的事実」ってのが、この映画ではまったく提示されてないのね。「誰かのウワサ」または「テレビ・ラジオの情報」だけ。
もしアレが本当に「恐怖の毒吐き人食い宇宙人」だったら、「円盤に乗り降りするところ」「吐いた毒ガスで人が死んでいくところ」「人を襲って喰ってるところ」というシーンが必ず入るだろう。もちろんそれらを排除したのは意図的で、「客観的・普遍的事実」の不在を表してる。結局アレが倒すべき極悪宇宙人だったかどうか、ってより、そもそもアレが宇宙人だったのかどうかすらこの映画の中の事実としては一切語ってないのだ!!)
なのでこの映画の立場としては、牧師が最初に抱いた疑念「この世は無意味で神なんかいない」ということこそが「正しかった」ってことで、牧師の「サイン(真理・神の啓示)の発見」はただの「思い込み」ってことになる。でも、たとえそれが「思い込み」で普遍的真理なんかじゃなくったって、その自分だけの「意味」が重要に思えたのなら、そしてそのことで生き生きとした生活が出来るのなら、それでいーじゃないかってことです。

…、とまあ、以上のように『サイン』は実に味わい深い作品なんだけど、この映画の、というか、シャマラン監督のほんとにスゴイところは、こんな「神なんていねーYO!!」っていう無神論的な映画を、
「世界に意味がない、神がいない、なんていう“間違った考え”に一度は囚われた男が、その後、神の奇跡を発見して信仰心を取り戻す感動の宗教物語」
に見せかけてしまう、堂々たるペテン師ぶりだろう。もっとも、そう見せかけなくちゃ米国他のキリスト教圏でバッシングされて興行成績に響く、どころかへたすりゃ過激なキリスト教原理主義者たちになにされるかわかんないって事情があるんだろうけど。
ってか、観客騙すどころかそもそも主演のメル・ギブソンが周知の通りガチガチのキリスト教右派なわけで、なんと身内の役者すら騙して使ってるのだ!!(まあ確かに彼以上にこの役にふさわしい役者はいないんだけど)
もしギブソンに自分が無神論者の映画に騙されて使われてたなんてことがバレたら、…きっと爆破装置のセットされた車のバンパーに片足を手錠でつながれて、「足を切る時間を10分やるっ」って糸ノコ投げつけられるだろう。
そんな危ない大ウソついてまで自分が撮りたい映画を撮ったシャマランは偉大なイカサマ野郎なのだ。

さて、で、新作の『レディ・イン・ザ・ウォーター』なんだけど…。
んー。今回はなかったことにしよう。
次回作、期待してます。

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