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キモい人のための音楽論
『ブスはバッハを聴け!』

ブスはバッハを聴けばいいのに。それもグレン・グールドのバッハを…。
といっても、当然グールドを聴いたところでいきなりブスが美人に変身するはずもないし、
「…人は外見ではない。音楽を美しいと感じるあなたの心が美しいのです…」
みたいな「ブスにキレイごと」などというおもしろいことが言いたいわけでもない。
じゃあなにがいいたいのかといえば、「音楽の力」についてなんだけど、まずは次の文を見比べてほしい。

1・『グールドを聴くブス』
2・『あゆを聴くブス』

これらはどちらも音楽を聴くブスについての表現だが、1の「グールドを聴くブス」が、単なる「風景」であるのに対して、2の「あゆを聴くブス」は、なにやらその行為自体を嘲笑するニュアンスが感じられるはずだ。それはなぜか?
実はこの二つの音楽はジャンルや芸術性の違いなんてこと以上に決定的、本質的な違いがある。 (※2の例として“あゆ”としたけど、ナカシマミカでもなんでもいい。いわゆるそんなようなの。聞きたくもないのに耳にする機会のやたらと多いジャパニーズロック、ポップスとやらの大半)
その本質的な違い、というのを結論から簡単にいうと、グールドのような音楽は、
「それ自身以外は何も表現していない、ただ音楽としてのみ存在する音楽」だ。
それに対して“あゆ”なんかの音楽モドキは「生き方」とか「メッセージ」とか「自己表現」とか「世界観」なんて言葉がやたらと重用されてることからもわかるように、
「“音楽以外のなにか”を修飾し、指示するためのアクセサリー・案内板」でしかなく、そもそも、それが音楽でなければならない必要も特にないのだ。
しかも大抵このような音楽が「自己表現」などという場合の「自己」とは、(この例でいえば“あゆ”という)キャラクター商品のことであり、音楽は単に商品の付加価値を高めるディスプレイ用の書割にすぎない。
『あゆを聴くブス』という言葉に含まれる嘲笑は、おそらくそこに発生する。つまりその音楽はもともと“あゆ”というカッコいいキャラクターを、さらにカッコよく見せるための装置(背景)なのであり、替わりにブスを立たせたところでギャグにしかならないのも当然なのだ。
だがその嘲笑は本来、ブスに、ではなくたかだか「外見が不細工である」なんてことからすら開放してやれない、それどころか追い討ちをかけて人を惨めな気分にさせるだけのクソ音楽にこそ向けられるべきだろう。本当の音楽の力ってのはそんなものじゃないんだ。

音楽がキモいやつを救うのは、
「“今”、鳴っているこの音こそが全てで、これ以上に確実なもの、重要なものなどどこにもない。」
そう思わせるからだ。
なぜそれが救いになるのかといえば、その「今」の確信とは「私」を確信することと同じだからだ。

「今」というこの特殊な時点にだけ「私」は存在し、逆に「私」がいる時が必ず「今」であるなら、そして、「私がいる時」という以外に「今」ということを説明しようがないのであれば(アインシュタインもさじを投げたように、科学では決して「今」に意味を与えられない。)、結局「今」というのは「私」と同義だということになる。
そうして音楽は「私」の存在を確信させるが、その「私」とは社会的に位置づけられた個人、あるいはなにかを主張したりする主体としての「自己」などではない。
「今」が音楽で満たされたなら、音楽を聴いている主体としての私は消える。だから当然「(この音楽を聴いている)不細工で貧乏でキモい○○さん」という「社会的に特定された個人としての私(自己)」も消滅する。
これはただの「現実逃避」なのだろうか。
いや、そうじゃない。ウィトゲンシュタインもいうように、認識される世界の中に「主体」としての私なんてものはそもそも最初からどこにも存在しないのだから。
つまり、音楽を聴いている時には、日常では完全に忘れられている本当のこと(主体の不在)を実感しているにすぎない。

音楽は「自己」を厚塗りするための化粧品などでは断じてない。それどころか、音楽が本来持つのはそれと真逆の力だ。音楽は「自己」を消滅させる。
「私」はそのときただ「音楽」になる。

ロック

音楽のこの力を一番自覚しているジャンルは、(一部の優れた)「ロック」だろう。
たとえばレディオヘッドの初期の傑作に『CREEP』という曲がある。
 “〜お前は完璧に美しい。なのにこの俺はどうしようもなくキモいやつ…。〜”
CREEPとは、そのものずばり「キモいやつ」という意味だ。

ロックという音楽を“自己主張”あるいは“誰かにメッセージを伝えるための手段”だ、なんて思ってる人には、いったいなんだってこんなことを歌うのかさっぱり理解できないにちがいない。
「「俺はキモいんだっ」なんて馬鹿げた主張をするひまがあるなら、なぜそのキモさを克服しようと努力しないんだ?なぜ友達を作ったり、ファッションに気を使ったり、プチ整形したり、メンズエステやスポーツジムや話し方教室や心理セラピーに通わないのだ?」 …もしそう思えた人がいたなら、それはおそらくロックという音楽を死ぬまで必要としない人だろう。
そうではないのだ。この曲は、自分が「キモい」ことを主張しているわけでも、理解してほしいわけでも、「キモい」自分から脱却して「イケテル人」になりたいわけでもない。
むしろ逆にこの曲は、自分が堂々と「キモい」ままでいるための音楽なのだ。

別の例を挙げるなら、ザ・ハイロウズの名曲で『Too late to die』というのがある。
 “〜そうだ俺はブリキのコインだ。レートのないブリキのコインだ〜”
と歌われるこの曲も
「今は俺もただのブリキのコインだが、今に見ていろ俺だって。いつかは純金になってやる。」
などという曲では決してない。
CREEPと同様に自分が「ブリキのコイン」のまま存在するための音楽だ。

「キモいやつ(CREEP)」にしろ「ブリキのコイン」にしろ、常識的にはどうやっても無価値で無意味で肯定のしようがないことだ。だが、自分がそれを「克服する」などということに、そもそも重要な意義を見出せない場合はどうなるのか?(「克服する」とは、つまり、世の中の価値基準(システム)に沿う(世間が認めるイケテル人になる)ことだ。)
あるいは、その「社会的に位置づけられた自己こそが「私」であり、それ以外の何者でもない」、なんてことが、どうしても信じられない場合はどうなるのか?

けれど残念ながら、「べつにイケテルやつになりたいわけじゃない。」と、キモいブリキのコインがいってみたところで、それは「負け犬の遠吠え」にしかならないだろう。
問題なのは、そういった社会の価値観が「常識」である以上、自分自身もその常識の土俵の上で勝負(思考)せざるを得ない、ということなのだ。つまり、そのルール上ではどうやっても「キモいやつ」や「ブリキのコイン」が勝つことは不可能なので、「負け犬ではない」と、自分自身にいい聞かせることすらもできないのだ。
だからこそ、そこに音楽が必要になる。

音楽は救い出す。
値札をつけられ、分類され、小さく折りたたまれて引き出しの中に入れられた「私」を。
音楽は消し去る。すべての関係性や因果律を、意味や常識を。
鳴らされたギターの音が、
今の、私の、世界の「全て」になったとき、
言葉では決して導かれることのなかった結論を、
それ以上ありえないほどの確実さで、
キモいやつに、
ブリキのコインに告げるだろう。
「それで良し」
と。

ジャズ

僕はジャズという音楽に一度も深く感動したことがない。素晴らしいメロディや超絶的なテクニックには敬服するが、それを聴くと、いつもなにかどうしようもない「疎外感」を感じてきた。が、その正体がなんだったのか最近やっとわかった。
先のロックの例での「今」は、そもそも他者との共有が原理的に不可能な「今=私」だった。
だが、ジャズというのは、「今」の“共有”を前提とした音楽なのだ。
すなわちジャズにとっての「今」とは、「(その場にいる)すべての人に共通する時間」のことであり、時計の針が指している「今」のことだ。その共通する「今」の中で、プレイヤー同士の(あるいは観客との)駆け引きで創られる音楽なのだ。たとえばサッカーのゲームのように。
だからジャズという音楽は、「私」そのものを認識させるような音楽ではなく、「私が他者と時間や場所を共有していること」を、「関係性」を確認する音楽だ。
そのため、ジャズは「ライブ」であることが極めて重要となる。だから出されるレコードも、ほとんどがライブ盤で、それは「共有された今」の記録であり、記された「歴史」だ。

だが、「「今の共有」なんてただの幻想なんじゃないだろうか。」などという、普通の人にとってはまったく馬鹿げた疑問を持つキモい人、たとえば僕のような離人症にとっては、それはそのままジャズという音楽そのものへの疑惑となって拒絶反応を起こす(というより、ジャズのほうが僕を拒絶する)。

グレン・グールド

グールドは、そんなジャズとは対極に位置する音楽家だろう。
マイルス・デイビスがステージ上で客席に背を向けて演奏したというエピソードも、あくまでも客を十二分に意識した上での挑発的なパフォーマンスだろう。マイルスには、というかジャズにはどうしても観客(今を共有してくれる他者)が必要なのだ。
だが、グールドは文字通り観客に背を向けた。つまりジャズにとって最も重要と考えられている「ライブ(他者と共有する今)」を完全にバッサリと切り捨ててしまった。
「スタジオ録音のみ。コンサートを開かないピアニスト、グレン・グールド。」
この人が確かに世界に存在した。…そう考えるだけで、心がほんの少し軽くなる。
あらゆる関係性でがんじがらめになった日常を、ほんの少し笑うことができる。

一見、自閉的と思えるこの音楽は、これ以上ありようもなく「巨大に」閉じている。
小さなビンに見えたのは、内と外がねじれるようにつながった「クラインの壷」だ。
ビンの外側に見えた面は実は内側なのだ。つまり、
閉ざされたのは「世界の全て」だ。

グールドのバッハは、
風景について、
歴史について、
人生について、
感情について、
希望や、絶望について、
愛や、友情について、
神や、悪魔について、
倫理や正義について、
バッハについて、
グールド自身について、
一切なにも表さない。
それはどんなことともまるで関係がないのだ。
ただ、音楽そのものの純粋な結晶として、
物質のように、
在る。

グールドのバッハは
私をどこへも連れ去らない。
だから、今、私は、ここにいる。

ジャズの人たちがいう「ライブ」とは、例えば次のようなことなのだろう。
「…今という時は二度と来ない。だからこそ貴重なのだ…」
だが、グールドの「今」は違う。優れたロックにとってのそれとおなじ「私」としての「今」だ。
その視点からみれば「二度と来ない今」などというのは、そもそも表現からして無意味だろう。
「私」としての「今」は、流れることも、過ぎ去ることもない。
もし「私」がそこにいるのなら、それは常に「今」なのだから。
グールドの音楽は、ただ、その当たり前のことを知らせるだけだ。

録音されたグールドの演奏は、過ぎ去った時の記録(歴史)ではない。
CDで鳴らされるグールドのバッハは、それを聞く私を、“実際に”録音された時空間へは決して導いたりしない。それは実際の演奏を思い起こさせるための劣化したコピーなどではないのだ。
グールドのバッハは、常に、
今、ここに、
まぎれもない“ライブ(私の生)”としてのみ現れる。
ブスにも
キモい人にも
たとえ誰であろうと一切関係なく。

だからブスはグールドを聴けばいい。
キモい僕もたぶんずっと聴き続けるだろう。■