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解読
『わたしは真悟』

こどもの世界・大人の世界

楳図かずお先生が自身の作品を通じて何度となく描いてきたテーマ、「こどもと大人」だが、それらはいったいどのようなもので、どんな違いがあるのだろうか。
『わたしは真悟』という作品の中には、その疑問に対する確かな手がかりがあるように思える。

1.「大人の世界」

「大人の世界」とは、いうまでもなくわれわれの日常の、この世界のことであり、私たちにとっては「当たり前の世界」である。けれど、『わたしは真悟』という作品にとっての「大人の世界」は決して「当たり前の世界」などではない。
なぜなら、この作品は通常の大人の視点から描かれたものではなく、そこから距離をとった、「大人の世界」それ自体を外側から観察したかのような作品だからだ。そのような特殊な視点から捉え直された日常は、一転して不気味な側面を見せるのである。
だが、その不気味さが真に意味するところに気づくためには、受け手である読者の側にも同様の「特殊な視点」から「(大人)世界」を再認識することが必要とされるだろう。

たとえば、まりん一家の渡航先であるイギリスで、激しいジャパンバッシングが行われていたが、これを「貿易摩擦」「国際化」「人種問題」といった大人の視点からのキーワードで解読しようとしたところで徒労に終わるだけだろう。なぜなら、そういった政治的な、大人世界の「内部」の問題はこの作品にとってはまったくどうでもいいことだからだ(断言してもいいが楳図先生は政治など興味がないだろう)。
このようなエピソードは単に、楳図先生が捉えた「大人の世界」の表層的なイメージのひとつにすぎないだろう。
ではそういったイメージが示す「大人の世界」とは、根本的にどういったものなのだろうか。
その大人世界の「本質」が、極めて明確なフォルムとして端的に表現されている箇所がある。それは、まりんのパパ他、世界の要人が集まった国際会議場に鎮座した、「小学校の運動会で使うような万国旗が人差し指に結ばれた手の像」だ。

日本の旗がない

このサミット(?)のシーンを見れば、楳図先生がいかに政治に無関心かがわかる。コミックとはいえ青年誌で、これほどまでに現実離れした国際会議のシーンは例がないだろう。
だが、単なる馬鹿らしさを超えて不気味な存在感すら漂わせる、この「手の像」こそが、楳図先生にとっての「大人の世界」を象徴する重要なアイコンなのだ。
これは深読みでもなんでもない見たままの解釈だと思うが、まず人差し指を一本天に向けた手は、「オンリー・ワン」「ただひとつ」ということであり「1つだけの世界」を意味している。そして、そこにぶら下がった旗は、その「たった1つの世界へ所属すること」を表している。
なにか当たり前のことのように聞こえるかも知れないが、「たった1つの世界」という意味をよく考えてほしい。もし世界がただひとつなら、そこからの所属を解かれた(落ちこぼれた)場合、その国(人)は、存在自体が消滅してしまうのである。まりんのパパが「(日本の)旗がない」ことに、あれほどまでに恐怖した理由もそこにある。
「旗がない」こと、つまり、ただひとつの世界に「所属していないこと・落ちこぼれること」は、大人にとって「虚無」に等しい。逆に言えば、大人とは単独では存在すらできずに、絶対的な世界の中での座標(属性、意味)を示す「旗」を確認することでのみ、ようやく自己(他者)の存在を確認できるのである。
話を個人レベルに落としても同じことだ。妻に逃げられて職も失ったさとるの父が、小便を垂れ流す廃人同様にまで落ちぶれたのも、「○○の夫」「○○の社員」という世界への所属を示す「旗」を失ってしまったからだ。(ただひとつの)世界から落ちこぼれたさとるの父は、同時に自己の存在自体も見失い「虚無」へと飲み込まれてしまったのである。

大人たちの願望も恐怖も、すべてこの「たったひとつの世界」という概念から生まれる。
会社をクビになった元同僚の九鬼さんと再会した晩に、さとるの父が見た悪夢(たぶん九鬼さんと殺しあいの末、死体を崖下へつき落とすような夢だったのだろう)も、イギリスでのジャパンバッシングも、すべて「ただひとつの世界」の中の限られた場所をめぐっての「存在」そのものを賭けた「椅子取りゲーム」なのであり、まりんのママが固執する社会的ヒエラルキーも、世界が「ただひとつ」だからこそ発生する。

ここで、この作品に登場する“日本人の意識”について考えてみたい。すでに見てきたとおり、この“日本人の意識”にも、なんら政治的な意図はないとみて間違いないだろう。
ではいったい“日本人の意識”とはなにかといえば、彼らこそが「究極の大人」、「大人の象徴」なのである。
つまり、大人が普遍的、絶対的な世界に対しての「旗」(属性、意味)を示すことでのみ存在するというのならば、極端なことをいえば、大人の存在とは「属性や意味さえあればいい」ということになる。
「旗」(意味)を喪失して虚無に飲み込まれたさとるの父とは逆に、“日本人の意識”は、まったくの虚無から「日本人」という属性・意味だけで存在するに至った、いわば記号の怪物であり、そんな彼らは大人の世界の仕組みそのもの、「大人の象徴」なのだ。
存在より先に、まず意味がある(意味しかない)彼らは、むしろ生物よりも機械に近い。
死んだ後に「本性」が現れる、というのは楳図先生の他の作品(『14歳』『神の左手悪魔の右手』等)にも出てきたが、“日本人の意識”が機械のようになって死ぬのも、「大人の本性」が機械のようなものだ、ということなのだろう。
だとすれば、この作品には、「機械から人間(こども)」になる真悟と、「こどもから機械(大人)」になる人間という全く逆方向の二つのベクトルが存在している。

2.「こどもの世界」

哲学者の永井均氏が『わたしは真悟』について、キャラクターによって、こどものこども(最も純度の高いこども)である真悟に対する"感度の違い"が存在し、中でも真悟と直接会話が出来る「美紀ちゃん(となりの子)」が、最も高い(こども性の)感度を持つ、と著している。(※『マンガは哲学する』講談社)
そのことには僕もまったく異存はないが、では、いったい美紀ちゃんはなぜ真悟と対等の「純粋なこども性」を持った「こどもの象徴」というべき存在なのだろうか?
まず先ほどの、“日本人の意識”との比較から考えてみたい。前述の通り、彼らが「大人の象徴」であり、意味から生まれた「記号の怪物」であるならば、単純に考えてそこから最も遠い存在、つまり絶対的世界(大人世界)にとって記号化できない「無意味・無価値」なものこそが「こどもの象徴」であるはずだ。
実際、しゃべることも書くことも出来ず、人間のかたちすらしていない美紀ちゃんは、大人にとっての「(こどもという)意味」をまったく持たないこどもである。
その「こどもという意味」とは、たとえば「かわいらしい」「やんちゃな」「おりこうな」「おしゃべりな」「すなおな」といった形容詞で語られるだろうが、実のところ、これらはすべて「大人」にも当てはまる意味や属性なのだ。つまり、大人にとっての「こどもらしさ」とは、単に「スケールダウンした大人」として、「大人の世界」の意味をそのままこどもに投影したものにすぎないのである。
こうして考えれば、美紀ちゃんがなぜ「こどもの象徴」であるかがわかる。つまり、美紀ちゃんは「こどもらしさ」という、その実「大人の属性」を一切持たないがゆえに、「大人世界」から完全に潔白な「純粋なこども」なのである。
けれど、そんな彼女だからこそ当然大人の世界では完全な「落ちこぼれ」になる。大人が認識できるような、世界に示すべき「旗」を最初からなにひとつ持たない、「意味の向こう側」に存在する美紀ちゃんは、大人にとってはまったくの「虚無」でしかないのだ。
このことは美紀ちゃんのシーツを剥ぎ取った両親が、「そこになにも見出せなかった」という場面で象徴的に表現されている。

では、大人が決して認識できない「こどもの世界」とはどんな世界なのだろう。
それを解く鍵は、この作品で描かれる大人とこどもの「恐怖の差」にある。
大人の恐怖もこどもの恐怖も、どちらも元は「自己の存在が消滅する」ことへの恐怖だ。だが、それが現す「かたち」には決定的な違いがある。
まりんのパパの「日本の旗が消えている!!」で示されたように、
大人の恐怖は「世界から落ちこぼれる」ことだ。それに対して、
こどもの恐怖は「世界の終わり」そのものである。
真悟が実体化させたまりんの「エルサレムの核戦争」と、さとるの「佐渡島での大量虐殺」。これらはどちらも「こどもの存在の終わり」という恐怖から生まれた二人の強烈なビジョンだろう。
では、なぜこどもの恐怖はこのような「世界の終わり」につながるのか。
その理由も「こどもの象徴」である美紀ちゃんについて考えてみればいいだろう。
大人の世界からは、理解の手がかりさえない「完全なおちこぼれ」であっても、美紀ちゃんは確実に存在している。だがその「確かさ」は、(真悟以外は)彼女自身しか知りえない彼女にとってだけの「確かさ」なのだ。だとすれば、そんな美紀ちゃんの世界から美紀ちゃん自身が「おちこぼれる」ことなど到底不可能だろう。
「こども」は(世界から)落ちこぼれることができない。なぜなら、「こどもの世界」とはそれぞれ「個別」の世界なのであり、大人のような「普遍的世界への所属」というあり方が取れない、自己と世界が完全に不可分な関係なのだ。
ようするに、「こども」とは「世界そのもの」なのである。
だからこどもは、自身が消滅するという恐怖と「世界の終わり」とが重なるのだ。

3.『毒』

すべての大人が帰属する普遍的な「大人の世界」と、「(個別な)世界そのもの」という、ある意味独我論的な「こどもの世界」は、文字通りの完全な別世界であって通常は接点がない。
しかし、もしそれが交わったならば、
大人の世界がこどもの世界を、あるいは逆にこどもの世界が大人の世界を侵食した時には、互いの世界を崩壊させるような強力な「毒」になる。

「ロビンは毒だ」
真悟が恐れたこの言葉は、ロビンの「こども世界を侵す大人性」が、まりんの「こどもの終わり」を、つまり「こどもの死」を早める「毒」になる、という意味だ。(さとるの場合は、あの名もない長髪で老け顔の子が、同様の「大人の毒」でさとるを侵し、さとるの「こども性」を殺す)そして、毒に侵された二人は「こどもの死」に重ねて「世界の死」を妄想するのだ。
では逆に、「大人世界を侵すこども性」としての「毒」とはなにか。
それが、真悟が組み立てた“毒のおもちゃ”なのである。
なぜ「兵器」ではなくて、「おもちゃ」なのか。それは、もともと“毒のおもちゃ”が、殺戮や破壊が目的で作られたものではなくて、むしろ、作られた「意味」や「目的」そのものが存在しないという、その「無目的性」から“おもちゃ”と名づけられたのだろう。おそらく“毒のおもちゃ”も真悟自身と同様に、真悟にインプットされた、さとるとまりんの無意味な「こども性」から偶発的に生まれたものに違いない。それが結果として大人の世界を破壊する「こどもという毒」を発生させる装置になってしまったのだ。
あの天使になったコンピュータ少年が「ブラックボックス」と呼んだのも、この「こども性」のことであり、あの大人びた少年の目から見た時、真悟が怪物の姿だったのも、整然とした大人世界を崩壊させる毒となる「こども性」の恐怖を真悟の中に認めたからであろう。

大人の世界に侵入した「こども性」が、どれほど恐るべきものか。例えばイギリスに向かうタンカーの中に突如出現した「小川公園」と、そこで遊ぶさとるとまりん。これは真悟という「こどもの象徴」が出現させた、真悟にとっての美しく神聖な(悪意のない)原風景だが、その光景を見た乗組員は恐怖の叫びを上げながら逃げ惑う。だがそれも当然だろう。その光景は彼らが立脚する「大人世界」の(物理)法則や意味、つまり世界の基盤が崩れ去ることであり、こんなことが普通に起きた場合、大人の世界は成り立たなくなるのだから。

ロビンたちの「大人の毒」が、まりんやさとるに引き起こした「こどもの死」は事実としての死ではなく観念的な死だった。しかし“毒のおもちゃ”あるいは真悟自身が「大人の世界」に与える「こどもの毒」は、実際に人を殺し、機械を狂わせ、建築物を溶解させ、そしてやがては(最終的に元に戻るとはいえ)世界を破滅させる。
その差は「大人の世界」が普遍的な、つまり「事実の世界」だからであり、逆に「こどもの世界」は(事実の)共有が不可能な独自の(他者にとっては観念的としかいえない)世界だからだ(まりんのこどもが終わったことなど真悟以外の誰が確認できるだろう)。

このように、「大人の世界」にとって“毒のおもちゃ”と真悟という「大人の世界に侵入するこども性」は恐るべき敵(毒)なのであり、だから“日本人の意識”という「大人の化身」がその破壊と回収に躍起になっているのだ。そして、真悟の父であるさとるが“日本人の意識”のブラックリストに載っているのもまた当然だろう。

こどもと大人の『本性』

この作品でもっとも美しい存在として描かれているのは、“奇跡”後の美紀ちゃんと真悟という二人の「こどもの象徴」である。以前の異様な外見から、美しい「本性」が発現した美紀ちゃんたちと、醜い怪物に変わる「大人の本性」とを比べれば、楳図先生の「こども」に対しての、「神聖な」といえるほどの強い思いが見てとれるだろう。(写真上・人間の子になった美紀ちゃん。写真下・『14歳』より。現れた大人の本性。)
にもかかわらず、というより、だからこそ「大人」と「こども」の世界は、互いが毒となり崩壊させるような「決して交わることのない異世界」として描かれる。
『わたしは真悟』という作品がどれほどこどもの素晴らしさを語っても、たとえばそこから「こどものように生きなさい」などというメッセージは決して出てこない。そんなことはもう絶望的に不可能なのであり、そのことを楳図先生は誰よりも知っているのだ。大人にとってこどもは、完全に「終わってしまった世界」であり、どれほど強く望んでも大人の前には二度とその世界が開かれることはないのである。

前述の「手の像」が「大人世界のアイコン」であるならば、こどもの世界を象徴するのは、“毒のおもちゃ”から発せられるあの“虹”だろう。
美しくて儚く、触ることはおろか近づくことすら出来ない“虹”。
最後、地球全体を覆うあの“虹”は、すでに大人になってしまった人間にとって、二度と戻ることの出来ない「こども」という失われた世界への郷愁なのだろう。■