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解読
少女革命ウテナ

2.ディオスと鳳暁生

←解説_1.ウテナとアンシー

解説_3.『ウテナ』の虚構論→

王子が虚構ということなら、当然ディオスは虚構である。ならばディオスから転じた暁生も“本当は存在しなかった”のではないか?
ついそのように考えがちだが、この『少女革命ウテナ』という作品自体が堂々と“虚構”を謳っている以上(※1)“本当は存在しない”という場合の“本当は”の方こそ逆に存在しないのだ。だから『少女革命ウテナ』において「鳳暁生は本当に存在したのか?」とは、「あの暴れゾウや巨大生タコは本当に存在したのか?」と問うことと同様、意味がないのである。(※2)

王子の死、そして世界の果ての誕生

「〜それが何かわかるか?ディオスの、王子様の墓だ。彼女が魔女と呼ばれたとき、ディオスもまた王子様ではなくなった。王子様としての俺は存在しない。〜」
終盤、“世界の果て”としてウテナと対峙する暁生のセリフである。 その暁生のいう「彼女が魔女と呼ばれたとき〜」とは、34話『薔薇の刻印』の中での次の場面だ。

山小屋風の建物の中に、アンシーと疲労で憔悴しきった瀕死のディオスがいる。そこへ各々武器を手にした群集が、王子を求めて殺到する。
そしてアンシーはディオスを救うため、殺気立った群衆の前に進み出てこう宣言する。
「ディオスはもういないわ。彼は私だけのものだから、二度とあなたたちの手の届かない場所に封印しました。」
それを聞き、怒り狂った群集は口々に「魔女め!」と叫びアンシーを串刺しにする。

以上の話の中で、どうしても次の疑問が残る。前述の「魔女(アンシー)の犠牲が王子(ウテナ)を生かした」とする“薔薇の花嫁と王子の図式”に従うなら、なぜ王子ディオスは死んでしまったのだろうか?

ここはかなり錯綜しているので、慎重に検証してみたい。
まず、先のウテナ・アンシー同一論をこのシーケンスに当てはめてみる。その場合、アンシーが救う王子とは当然ウテナのことであり、ならばこの“群集”とはウテナを傷つける様々な“世界の残酷さ”に相当するだろう。
特に問題はなさそうだが、ひとつ紛らわしい箇所はアンシーの「あなたたちの手の届かない場所に(王子を)封印しました」というセリフだ。これまで見てきた“封印”の意味からすると、この場面ではアンシーが“封印された”ことになるはずだからである。しかし、それは次のように視点を転換することで解決するだろう。
そのときアンシーがいた場所が“柩の中”で、王子(ウテナ)を封印した「手の届かない場所」というのが“外の世界”なのだ。つまりアンシーはウテナを外へと逃し、柩を内側から閉めたのである。

問題はディオスだ。同じ薔薇の花嫁(魔女)の犠牲により、ウテナは生き、ディオスは死ぬ。
二人の王子のこの結果の違いはどこから来るのだろう?

イノセンス、そして無知であること、それが王子の条件

王子の死因を探るならば、まずは死体を調べてみることだ。
死んだ王子、すなわち世界の果て(鳳暁生)は、以前のディオスと比較して、どう変化したのだろうか。
誰もが気づく点は、暁生になったディオスは“純真さ”を失ってしまった、ということだろう。
“純真さを失う”、とは逆に言えば純粋だったものに“不純物が加わる”ことである。先のアンシーの自己犠牲のシーンの中にその“不純物”を見出すなら、
「純粋な光である王子が、“他者の犠牲”という“闇”の基盤の上に存在している」という矛盾だろう。
その事実を知ったとたんに、純粋な光はもはや純粋でなくなった、というよりも“純粋な光”という存在自体が虚構である(※3)ということを自ら悟ったのだ。ディオスは事実を知ることで、いわば、知識に汚染されて死んだのである。

純粋さと無知は結局同じことだといえる。そして光の王子にとって、それは絶対必要な条件である。
最初の出会いの時、ディオスはウテナに次のように語りかける。
「もし君が大きくなっても、本当にその気高さを失わなければ、彼女(アンシー)は永遠の苦しみから救われるかも知れないね…でもきっと、君は今夜のことをすべて忘れてしまう。〜」
その言葉通り、ウテナはアンシーを忘れることで王子になった。反対に、アンシーを知るディオスは、死んで“世界の果て”になってしまうのである。(※4)

結局、王子ディオスと“世界の果て”鳳暁生との違いは、“光そのもの”の虚構性を認識しているかどうかの違いでしかない。つまり、光の王子はあの(アンシーが魔女と呼ばれた)ときに虚構になったわけではなく、もともと虚構だったことに改めて気づいただけなのである。したがって、その虚構性を“王子の死”というなら、王子は最初から死んでいたことになる。

世界の果て〜卵の殻〜

ウテナとアンシーが“私”(※5)の象徴だとするなら、それに対する“共同体のシステム”、“世界”といった概念を、ディオスと暁生(世界の果て)は表している。
したがって、ディオスと暁生の持つ意味は、そのまま世界全体にまで拡大される。(※6)

光の王子ディオスの“光”とは、世界中の人(女の子)(※7)を幸せにするために与えられたものであり、それはおそらく友情、恋愛、結婚、美貌、富、名声…etc.などのありとあらゆるこの世(世界)の価値だろう。そして光の王子がそれら世界の価値そのものの象徴だとするなら、“王子の死”“王子の虚構性”とは、そのまま世界そのものが死んでいること、世界が形骸化した価値で閉じている卵の殻(“果て”がある世界)であることを示している。つまり、“私”が閉ざされた(=死んだ)状態を“柩(ひつぎ)”、世界が閉ざされた(=死んだ)状態を“世界の果て”というふうに、この作品は二重に閉じた空間をその構造として抱えている。そして、最後ウテナ(アンシー)の“柩(私)”が開かれると同時に、爆発的に世界そのものも開闢するのである。(※8)

誤解されやすいのは、「“善”だったディオスが死んで、鳳暁生(世界の果て)という“悪”が誕生した」というような解釈だろう。しかし、以上の事情を踏まえればそうではないことがわかるはずだ。“世界の果て”は悪ではなくて、むしろ、今も依然として通用している“すばらしいこと”や“善”、この世界の価値そのものなのだ(※9)。ただ、ディオスが最初から虚構だったのと同様、永遠の輝きと思われた世界の価値も虚構だった。鳳暁生はそれに気づいただけなのである。

「王子様とお姫様はお城の中でいつまでも幸せに暮らしましたとさ…。」
童話の結末に“その先”は存在しない。なぜなら、それ以上の幸せは“どこにもない”からであり、そこが物語世界の価値の終着点、すなわち“世界の果て”なのである。そして、それはそのまま現実の世界にあてはまる。
33話『夜を走る王子』で、ウテナは暁生と関係を結ぶが、あれは、何も知らない純真無垢な少女が狡猾な大人の欲望の犠牲になった、などという話ではまったくない。
そもそも“世界の果て”である暁生にそんな欲望など存在しないのであって、彼にとってはセックスなどガラクタの山(世界の果て)から拾ってきたゴミのひとつにすぎないのである。 したがって、ああなることは完全にウテナが望んだことなのであり、暁生はそのときただ、ウテナにとってのひとつの価値の終着点“世界の果て”を見せただけなのだ。(※10)

←解説_1.ウテナとアンシー

解説_3.『ウテナ』の虚構論→

(※1)  画面の隅で回転する薔薇のアイコン、舞台の書割のようなシュールな背景、そして極めつけは「どうせアニメでしょ」というセリフ。単なるギャグアニメ以外で、これほど“虚構”を強調した作品は例がないだろう。(詳しくは3章で解説)

(※2) “ウテナとアンシーは同一人物”などというと、
「つまりこの話は、解離性同一性障害を患った一人の少女の妄想だったのですね」
といった感じで、むやみに現実的に解釈してしまう人がいるが、まったくの的外れでしかない。この完全な虚構世界の中での彼女たちには、外側からの支えなど不要なのである。

(※3) 黒薔薇編での若葉とウテナの決闘のエピソードで、“光そのものの虚構性”が、その具体例として生々しく表現されている。ウテナの完全に純粋な善意と友情も、それゆえ若葉を深く傷つけ、彼女に「おまえには(私のことを)わかる資格すらない!」とまで罵られるのだ。

(※4) 純真無垢、ゆえに無知で鈍感な(バカな)ウテナと、なんでも知っている鳳暁生の対比は作中何度か現れる。そして、それはそのまま“こども”と“大人”の対比にもつながっている。

(※5) この“私”の変化が、最終的には“世界の革命”に結びつくことを考えるなら、ここで語られる“私”とは、単なる日常的な意味での“個人(世界の側から位置づけられた私)”を超越した、独我論的ともいえる“私”を意味している。

(※6) 『少女革命ウテナ』を理解するうえで非常に重要なことだが、鳳暁生の世界、鳳学園とは、われわれのこの現実の世界そのものを表している。そう捉えなければ、この作品は単なる「カルト教団の洗脳から開放されて社会復帰する少女」という底の浅いフィクションに落ちてしまうだろう。

(※7) ここで(女の子)というふうに()で括ったのは、王子というキャラクター上、救うのは「お姫様(女の子)」である、という程度のことで、女の子自体は本質と関係ないからである。ディオスが変貌するのは“世界の果て”なのであって、“女の子の世界の果て”といった制限はない。

(※8) 「王子は死んだ。いつまで待っても現れない」少女に向けたメッセージだとすれば、残酷で非常識な物言いである。だが、『少女革命ウテナ』という作品の非常識は留まるところを知らず、最終的には「すべての世界の価値は死んでいる(虚構である)」とまでいっている。たとえそれが愛や友情といった否定のしようがないように思えることであっても、だ。そしてその閉じた死の世界の中で唯一の救い(突破口)がウテナとアンシーという“私”なのである。
これは世界のすべてを疑ったあとに“私”が残ったデカルトの方法的懐疑に似ているが、ここで問題にされているのが存在ではなく価値であることを考えるなら、神の死後、"私"という唯一の価値の源泉から世界を再構築させようとする試み(革命)は、むしろニーチェ的といえるかもしれない(「神の死」=「王子の死」)。

(※9) その証拠に“世界の果て”である鳳暁生は、この世界が“良い”とされるおよそすべてのものを兼ね備えている。富、権力、知性、知識、ルックス、運動能力、話術、…etc.だがそのことの空しさを知っているのは暁生本人だけであって、他はウテナにしろ冬芽にしろ、彼を慕い憧れる。だが、それは当然のことであり、そうならないほうがはるかに不自然だろう。
世界の価値そのものである暁生を本当に否定できるのは、その世界の外側に立つことができた者、たとえばラストのアンシーのような(この作品で言う)"世界を革命"した者だけなのだ。

(※10) “愛する人と結ばれる”ことが至上の幸福である、というような固定的価値観は、童話の世界の中世から現在まで一貫して変わっていない。
ここで考えられるのは、おそらく暁生がディオス(王子)だったとしてもやはりウテナを抱いていただろう、ということだ。なぜなら人々の望みを叶えるのが王子だから。つまり、ディオスが“永遠の光”を見せることと、暁生が“世界の果て”を見せることとは、結局同じことなのである。

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